「我々はいいとか、悪いとか、正しいとか、正しくないとか、人間のちっぽけな頭で考えたくだらない差別観で、お互いを見、自分のことを考えて、平気な顔をし、そして、他人のことをあげつらい、それが大事なことだと思ってるんですね。しかし一人ひとりのいのちが、一人ひとりの顔が違っているように、それぞれの意味を持ってこの世に生まれているということ、このいのちが与えられたたったひとつしかないいのちであるということを認識したとき、いったいこのいのちを我々は自己中心に生かしていいものかどうか。我々はいったい何のためにお互いにいのちを与えられたのか。この世界を支え、我々を動かし、我々を促しているものの、そういったものにおのずから、しからしめられる。そういうところに大きな生き方がある。そのときに、こだわりというものが我々から、はっきり離れていく。そして、いつかは知らないけれども、もっと大きな安定した、こだわろうとこだわるまいと、そこに安定した世界というものが開かれてくるのじゃないでしょうかね。…そこにはいろいろな自分の体験そのもの、人生の体験があります。そこに自分を超えた力、自分のはからいを超え、自分の計算を超え、自分の小知、そういったものを超えた力をあなた方は感じることが何度もあるだろうと思います。
それが、共感の世界です。共にそのなかに生きる。共に同じようななかに生かされているということを感じ合う。これがほんとうの共感ということになります。人間対人間の共感であれば、そこには必ず打算があり、自己中心的なものがある。これをまず、はっきり認識することです。それを安易にいい加減に考え、感じたりすると、そこにいろんな問題が生じてくる。どのような人間の自己中心であろうと、自力主義であろうと、その最後において我々は行き詰る。そのなかにそれをも包含し、それさえも救ってくれるという大きな力があるということをお互いに知ること、そこにおいて大きな共感が成り立つことがはっきりわかる。…
すらりとして、安定して、こだわりというものに負けないというか、こだわらないで、こだわりにこだわらないで、さらさらと水のように流れて行くことができます。こだわってもいい。こだわってもいいのです。というのは、このね、大きな力を妨げるような、力強い、それほどの力強いこだわりはありません。そういうものに必ず乗っかる。ただ、それは、長い河のなかに、淵ができても、淀んだものは、必ず流れて行く。じっとそのなかで、その自分のこだわりを、じっと見つめ、はっきり認識するときに、おのずとそこで展開されるものが、おのずからしからしめられるものがあるというのです。そんなことを私は感じております。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)
まず我々一人ひとりが何のために生命(いのち)を授かったのか、ということ。
その視点が持てただけでも、狭い私利私欲の視点から離れることができます。
そして、あなたもわたしも、それぞれに今回の人生において果たすべきミッションを与えられて、生かされているということ。
それを共に感じることを“共感”というのです。
失意の底にある人に向かって「お辛いですね。」などと言うのが“共感”ではないのです。
そんなペラッペラの情緒的同情ではなくて、あなたもわたしもそれぞれに与えらえたミッションを果たすために生かされているということを共に感じるのが“共感”なんです。
そうなれば、失意の底にある人を観ても、その人の存在の奥底に働いている生命(いのち)の力、そして自分の存在の奥底にも働いている生命(いのち)の力を感じることでしょう。
そして最後の「こだわらないで、こだわりにこだわらないでさらさらと水のように流れて行く」から「こだわってもいい。こだわってもいいのです。」というところは、まさに近藤先生の真骨頂でしょう。
それでも、おのずからしからしめられる力があるから心配するな、ということなのです。
「自然(じねん)」と書いて、「自(おの)ずから然(しか)らしめらるる」とよむ。
そのことに気がついて、近藤先生と歓談した日のことが、昨日のことのように思い出されます。