小学校低学年の頃、家の裏に古い長屋があった。
その長屋の入り口に、一本の無花果(いちじく)の木があった。
そしてその長屋には小学校の上級生の男の子が住んでいた。
その頃、学校の砂場で遊ぶ走高跳びが流行っていて、彼もまた一緒に遊ぶメンバーの一人だった。
器用にジャンプするその子の両手は、サリドマイド禍のために20cmほどしかなかった。
その後、その長屋は取り壊され、その無花果の木だけが残った。
家人が小学校低学年の頃、時々預けられていた家の裏に、同級生の女の子の家があった。
見るとはなしに見えるその子の家の中はいつも暗かった。
その子の両親は二人とも全盲であった。
その子の視力に問題はなかった。
その家の庭には大きな無花果の木があった。
その後のことはわからない。
以来、無花果の木を観ると、私も家人も(感情的にではなく)霊的にやるせない気持ちになる。
いちじくを漢字で書くと無花果(花のない果実)となるが、実際には実の中に隠れて花を咲かせている。
花は見えぬが、花はある。
花はあるが、花が見えぬ。
聖書やいろいろな国の神話に無花果が取り上げられるのには訳があったのである。