精神科医療福祉関係者で、自分が仕事が“できる”ことを“誇る”人がいる。
また、自分のことでなくても、ある人が仕事が“できる”ことを“賞讃”する人がいる。
大抵は、仕事を計画的に、効率的に、うまいことこなせることをもって、“できる”と自負し、“使える”などと評価されているようだ。
いかにも資本主義下の現代社会で評価されやすい功利的な価値観と言える。
しかし、私はいつも違和感を抱いて来た。
で、あなた方が関わっているのは、どういう人たちでしたっけ?
障害の種類にもよるが、それこそ、計画的に、効率的に、うまいことこなすことが得意でない人たちが多いのではありませんか?
それなのに上記のような価値観を持っているということは、患者さん、利用者さん、メンバーさんに対して、実は密やかな差別観を抱いていることになりませんか?(そしてそれはバレている)
それ故、“できる”職員という表現を簡単に使う神経に私は違和感を覚えるのである。
そりゃあ、たまたま“能力”として「計画的に、効率的に、うまいことこなす」力を授かっている人がいて、それを発揮することには何の問題もないと思う。
それは、大喰いができるとか、鼻が利くというような“能力”と同じである。
問題はそこではなくて、「計画的に、効率的に、うまいことこなす」ことを“誇る”あるいは“賞讃”する価値観にあるのである。
患者さんに向かって、学歴なんてどうでもいいじゃないですか、と言いながら、家庭では、子どもの有名校受験にプレッシャーをかけている精神科医療福祉関係者がいる。
それもその子どもがその子の本来の自分を発揮するのに、その学校の校風がたまたま合っているのであれば、何の問題もない。
しかし、その有名校に行っていることを“誇る”あるいは“賞讃”するとなると、一気に生臭い話になって来る。
もう一度申し上げる。
たまたま“能力”として「計画的に、効率的に、うまいことこなす」力を授かっている職員がいて、それを発揮することには何の問題もない。
しかし、“誇る”あるいは“賞讃する”価値観による汚染を許してはならない。
我らが仲間たちには、二枚舌の偽善者に堕していただきたくないからね。