テレビでランボーの映画をやっていた。
観るとはなしに観ていたら、あるランボーのセリフが耳に入って来た。
“live for nothing or die for something”
“live for nothing”=何にもならないことのために生きる=無為に生きる
“die for something”=某(なにがし)かのために死ぬ=有為に死ぬ
映画の状況からして
「ただ生きるくらいなら何かをやって死にたい」
というニュアンスであることが伝わって来る。
いかにもハリウッド、アメリカらしい考え方だと思った。
何が有為か無為か(価値があるかないか)は自分が決め、
どう行動するかしないかも、生きるか死ぬかも、自分で決める。
まさに自己決定的、いや、自我決定的な発想である。
その主体として、筋骨隆々たるランボーはいかにも相応(ふさわ)しい(筋肉は自我の象徴でもある)。
しかし、そうでない決め方、決まり方もある。
何が有為か無為かもおまかせ。
生きるか死ぬかもおまかせ。
催されるままに行動し、あるいは、催されるままに行動せず
そして
生かされるままに生き、召されるままに死ぬ。
決定権は自己にはない、自我にはない。
しかしミッションは果たされて行く。
そんな無我的な生き方、生かされ方もあるということを書いておきたかった。
そしてそう思ったのも私ではない。