「その次に、それじゃあ、そんなことは私はありませんと。私は子どもに対して、非常にもう、なんかっていうともう、なんでも言うことは聞いて、傍(そば)にいてやって、なんでもかんでも言うことを聞いてますと。子どもが欲しいものは全部与えていますと。こういう具合に、まあ、おっしゃる方もあるだろうと思います。で、これはですね、ある意味で言いますと、まあ、その、いわゆる、近頃もう、誰でも使いますからね、皆さん、わかり切ったように思ってらっしゃるけれど、過保護型っていうことになるんですね。
過保護っていうのはね、過保護のお母さんっていうのはね、よ~く分析するとね、自分自身がすごく甘えたい人なんです、ね。自分がね、そのね、甘えられない欲望をですね、あってね、それを子どもに転嫁(てんか)して、自分はさぞかし、こんなにホントに、無意識にね、ホントはとっても甘えたいの。それがなかなか甘えられない。そうするとね、幸福なのは、甘えられることが幸福だと思うからね。だから、自分の子どもにですよ、甘えられるように、どんどこどんどこ与えてやる、ね。いいですか。そうするとね、子どもはね、非常に喜びます、ある意味でね。しょっちゅう一緒にいて、甘えられて、そうするとね、これは、ものすごくお母さんに対してね、しょっちゅうお母さんがいないと大変なんだな。もうしょっちゅういなくちゃいけないからね、もうお母さん、お母さんと、お母さんの袖(そで)にぶらさがってね。今、袖がないんだけど何? スカートか(笑)。ぶらさがっているというふうな形になるわけですね。
でね、そういうことが重なって来ますとね、面白いことに、面白いっていうのは、これがね、幼稚園なんかに出て行きますとね、大変問題が起こるんです。ていうのは、お母さんがいないと安心感がないでしょ。一遍もひとりで独立してただっていうのがないから、だから今度は、その、幼稚園に行きますとね、いわゆる乳離れが悪いといいますか、幼稚園に行くと、幼稚園に行くのがイヤなんですね、うちにいたい。お母さん、何よ、そんな! 向こうへ行くとね、泣き虫になってね。すぐもうね、何かっていうと帰って来て、おかあちゃん、とこういうことになるわけですね。…
それでね、どうなるかっていうとね、これがね、まあ、その、幼稚園時代は、甘えたりなんかして、まあ、そういうふうに、泣いたりなんかして、やっとこさっとこやる。そのうちに慣れるでしょう。慣れるけれどもね、しばらくこう行っても、なんとなくね、この、弱々しい子になっちゃうんですね。弱々しい子になって、まあ、いわゆる、なんていいますかな、泣かされる、イジメられっ子になっちゃう。イジメっ子じゃなくてね、イジメられっ子になっちゃう、ね。そうしてね、そのくせ、うちではね、ものすごく、あの、甘ったれになっちゃうんです、ね。
だから、どういうふうな形になる、まあ、いろんなことが起きて来ますが、その、いろんな形と言いますと、ひとつだけ言いますと、例えば、それが、ある思春期になりましてね、その人が思春期になって、まあ、高等学校に行くんですね。そうすると、面白いことはね、女の子であればね、例えば、学校に行きますね。学校に行くと言って出て、行かない。あるいは、放課後ね、どこかに行っちゃう、ね。面白いですよね。今まであれほどお母さんの傍にいたわけだから、いつまでもそうかというと、その頃になるとね、自分の今に干渉されたくない、人間としての、ひとつのね、ある意味で自然なね、ことだとも思うんですけど、表れ方が、いわゆる非行になっちまうんだな。自分が今まであんまり束縛され、お母さんによってアレされたのがイヤになっちゃってね、それで今度は、逆にですよ、その間に自分の自由を楽しもうというようなことになって、まあ、ロッカーの中へね、入れといて、服装を替えて行ったりしますね。
それからまた、男の子であれば、例えば、同じようなね、お母さんに頼んで、250だか、ホンダのなんとかっていうのを買ってもらってね、そうしてね、どうかっていうと、友だちとね、おんなじようなね、やっぱり一緒になってね、それから、なんかね、ああいうふうなね、ものに乗って行くと、こういうことになるんです。
あの、暴走族なんかの気持ちの中にはね、本当は暴走族の連中ってのは、個人的に言いますと、非常に気の弱い人が多いんですよ、どっちかと言いますとね。自分自身の力、腕力に対してはね、そんなにね、自信がないんですよ。だからこそね、ああいうね、馬力の強いね、ああいう、この、まあ、なんていうんですかね、オートバイをね、ブルブルブルとこうやるとね、もう自分がすごく力強くなった気がするんですよね、途端に変身しちゃう、ね。
これは大人にもありましてね、あの、自動車に、平生(へいぜい)、すごくね、謙遜でね、内気なようなね、男性がですよ、一度(ひとたび)ね、オーナードライバーになると飛ばして、ブーンブーンブーンとやってね、ものすごいんですよ、ね。へ~んし~んて言うんでしょうね(笑)、この頃にしたらね。それは要するに、今までの抑圧されたものが全部、出ちゃう、ね。自分自身が本当はね、そういうことがしたいわけ。だけど、自分に自信がない。ところが、物を借りてね、自動車とか、そういうものを借りてね、やると自分のような気がする。そこでそういうようなことを主張する、というようなことがあります。
だから、今言ったように、あんまり過保護にするとね、そういうことになっちゃう。そうして結局、困っちゃう、とかなんとかいうことになるわけですがね。それからまたね、ですから、過干渉ということがある。
それからさらにこれが、まだ良いんですけどね、これが無力感になって、しょっちゅうイジメられっ子になる。学校の成績も良くない。そういうことになりますとね、自分でものすごくね、あの、悲観しちゃうんですね。だからね、この人はね、ものすごく内気になって、内向的になってですよ、その結果ね、もう何ものも失敗しちゃってね。そうした、まあ、結果、自殺するという場合もあります、ね。」(近藤章久講演『親と子』より)
今回は、母親が子どもに対して非常に過保護な場合。
お母さんがいないと不安になってしまい、甘ったれで、自立できない、弱弱しい子、ひいてはイジメられっ子になってしまう。
それが思春期以降になると、母親の過干渉に反発したくなって、非行に走ったり、また、バイクや車の力を借りて、抑圧した思いを発散するようになったりする。
しかし実際には、非常に気の弱い、自信のない子であることには変わりがない。
それが無力感にまで行ってしまうと、内向的になって、自殺の危険性すら出て来ることになる。
やっぱり、自分が自分であることの幹を太くして行くためには、過保護・過干渉ではなく、試行錯誤をやらせてみて、手痛い失敗からも学ばせて、自力で切り拓いて行く力を養う必要があるわけです。
それにしても、今回も近藤先生の発言の中で、
「過保護のお母さんっていうのはね、よ~く分析するとね、自分自身がすごく甘えたい人なんです。」
のひと言は、流石に鋭い。
これはね、対人援助職の人にも当てはまりますよ。
患者さん、利用者さん、メンバーさんにサービス過剰な人はご注意を。
それは相手のためではありません、自分のためですから。