いわゆる過去の偉人について、その評伝や評論、解説を平気で書く人がいる。
私はそれはとても難しい仕事だと思ってる。
何故ならば、偉人でもない者が偉人について書けるのか、という根本的な問題がある。
少なくとも偉人の境地に肉薄する体験を持っていなければ、書けるはずがないと私は思う。
厳しく言えば、
「燕雀(えんじゃく)安(いず)くんぞ鴻鵠(こうこく)の志(し)を知らんや。」(『史記』)
(ツバメやスズメにオオトリやコウノトリの志がどうしてわかろうか、わかるはずがない)
である。
じゃあ、小人は偉人について一切語ってはいけないのか、となると、そうも思わない。
自分が足りないことを自覚した上で、一歩でも半歩でも尊敬する人物に近づくために、人間として成長するために、偉人が残した言動に触れて、今の自分の精一杯で、ああでもないこうでもないと思いを巡らせることには大きな意義があると思う。
何よりもこの“足りなさの自覚”が重要なのである。
その自覚のない、思い上がった、自己愛的な人物が語るものには、残念ながら、何の意味もない。
簡単にわかったと思うなよ、である。
それ故、かくいう私も近藤先生の言葉について語れるのである。
まだまだわかっていない。
その自覚がある。
しかし先生の言葉に触れることには、絶望ではなく、成長の楽しみがある。
私が近藤先生について書く場合、それは私にとって面談の続きなのである。
偉人たちが残した言葉もそういうふうに活用されれば、たとえそれが浅はかな解釈であっても、故人たちは笑顔で許してくれるものと思う。