子どもの頃、歯が痛くなった。
痛さにわんわん泣いたのを覚えている。
歯科が休みだったのか、母は私をおぶって、近くの薬局に正露丸を買いに出かけた。
正露丸を虫歯の穴に詰めると痛みが治まると言われていたのである。
しかし、母の背中で痛みに泣きながらも、私は薬局に着かないことを祈っていた。
そう。
この母の背中で、直に母の温もりを感じられる時間が、例えようもなく、幸せだったのである。
幼い頃から母は、家事だけでなく、父の経営する病院の調理室の仕事までやらされ、実質的に無給職員のような扱いで働いていた。
そのため、四人の子どもに関わる時間がなく、しかも私(三男)と弟(四男)とは双子であったため、いつも二人で遊んでいるように見え、余計に手をかけてはもらえなかった。
しかし、いくら双子でも母親の代わりになるはずはない。
いつも寂しかったのである。
それが今回ばかりは母親を独占できた。
こんな嬉しいことはない。
だから、歯の痛さに泣きながらも薬局に着かないことを祈ったのである。
あの感触を思い出す度、幼少期に十分に寄り添われなかった子どもが、「基本的不安」に苛まれるというホーナイの説に納得がいく。
患者さんやクライアントの話を聴いていても、ネグレクト~マルトリートメントのために、大人になっても、不安と孤独感に苛まれている人は珍しくない。
ある女性は、今も彼にしがみついて寝るのだという。
その肌から感じる温もりと安心感で、ようやく不安が癒えて、眠れるのだ。
このように、不幸な生育史のせいで十分な愛着関係を得られず、そのために自我が感じる不安がある。
そしてその不安を解消するためには、なんらかの形で愛着を満たし、自我が安心するようにしてあげれば良い、ということになる。
精神療法や精神分析というものは、そのように、自我の感じるところを前提にして治療が組み立てられているのだ。
しかし、である。
今日書きたいのはここからだ。
人間が感じる不安は、そんなものばかりではない。
めったに出逢わないが、自分の存在=自我の存在自体の虚構性に気づいて陥る甚深な不安もある。
そうなると、自分が今ここに存在していること自体が、本当にそうなのか、不安になってくるのである。
この不安は強烈に深い。
また同時に、外界の存在の虚構性まで感じられて来ると、事態はさらに深刻となる。
自分の存在だけでなく、この世界の実在性までもが揺さぶられることになる。
これを欧米の精神病理学者は暢気(のんき)に「自我障害」などと言っているが、これは「障害」ではない。
確かに「離人感・現実感消失症」や「統合失調症」などにおいて、「障害」としてこの体験が起こることがあるが、ごく一部の人には、感覚が非常に敏感であるために、自分の存在の虚構性、この世界の存在の虚構性という「真実」を感じる人が存在するのである。
そうして起こる甚深なる不安は、先ほどのように、いくら彼氏にしがみついたところで消えはしない。
自分自身も、そして彼氏の存在も怪しいのであるから、消えるはずがないのである。
では、この不安はどうやって解消すれば良いのだろうか。
それはそうなった人にだけお話したい。
というのは、そこまで陥った体験がなければ、ここでどう語ったところで、一から十までピンと来ないに決まっているからである。
今までそんな話を共有できたのは、近藤先生と一人の親友だけであったが、万が一読者の中にその体験に苦しむ人がいるかもしれず、そのためにふと書く気になったのである。
いや、それだけではない。
昨夜、久しぶりにその体験が起きた。
自分の存在の虚構性が立ち現われ、内腑をえぐられるような、あの甚深な不安が起きたのである。
しかし、今の私は幸いにして、それを超える道を知っている。
だから、死にもせず、狂いもせず、こうして生きていられるのである。
そんな機縁で、今日このことを書いている。
また、わけのわかんないことを書いてるな、と思う方はどうぞ読み飛ばしてくれ給え。