「私思うのは、いわゆる、子どもに対して、そういった意味で、母親とか、重要なんですが、その母親が、例えば…子どもを置きっぱなしに置いて、いろんなことをやりに行くというふうなことが起きますと、そういうことが非常に子どもに孤独感、寂しい感じを与えますね。不安感を与えます。そうしたものが、しかし、さっき言ったように、そこでもって敵意を母親に対して、イヤなお母さんだと思うけど、悪いお母さんだと思うけど、それを抑えてる。
抑えてることがずっと続きますと、そうしますと、その抑えられた敵意というものはどこかに出すもんなんです。あなた方が、例えば、夫婦喧嘩をして我慢をした。あるいは、上役にはっきり反抗できなくて我慢したと。そういうときにどうしたかというと、奥さんであれば、それは、あるいは猫に当たるとか、ね。そういうふうなことになるだろうし、また、普通の男の人であれば、さらに自分の下役を怒鳴るとか、ね。あるいは、まあ、せいぜいバーかどっかに寄って、ガーガー怒鳴って憂さを晴らすとか。どっかでそれを出して来ますね。
同じように、抑えられたものというのは、どこかで出して来ますから、子どもの場合に、それはどこに出るかというと、この例のように、例えば、この人は、お父さんとお母さんがですね、夜、飲み屋をやってるわけですよ、ね。それで、うちへね、学校から帰って、ずーっとね…たった一人で…小さな四畳半ぐらいの部屋でね、アレなんですよ、テレビを一人で観てるんです。そういうことを長いことやってる。そうやって、まあ、見捨てられた子どもですね。
そういうのが、こういうふうなものになって来て、それでどうしたかっていうと…学校に行きましてね、人の物をね、人がみんなこう、ちゃんとしてるでしょ、子どもたち。そうするとね、子どもたちの上にある本やなんか全部、うわーっと気違いみたいに、みんなね、メッチャクチャにしちゃう。それからね、人の物をね、どんどん自分で使っちゃう。つまり、敵意をそういう形で表してる。
これは大人から見ますとね、非行ですね、良くない態度でしょ。けれども、それはね、どこから出るか、よ~く考えてみるとね、そういったね、基本的にね、基本的に不安があるわけです。不安をね、それを癒してくれない親に対する敵意ね。そういうものが全部そこに来ているわけですね。…
例えば、あなた方は、あなた方の旦那さんの、ね、傍にいるだけで満足すること、ありませんか? 彼氏がどこかへ行っちゃって、寂しくてしょうがない、ね。だけど彼氏の傍が、彼氏が別にどうってことない。おお、おまえ、それじゃあ、なんてなことを考えても、そんなことじゃない、私はあなたの傍にいればいいんだと。こういうふうなことで満足することありませんか? ね。つまり、傍におられるということが、つまり、夫が傍にいるってことが安心感の素でしょ?
同じように、子どもにとってはもっともっと親の傍にいるってことは安心感の素なんですよ。その安心感を与えてくれない親に対する敵意ってのは当然でしょ。しかし、親に対する敵意は、さっき言ったように、下役の人間が上役に敵意を出せないのと同じように、出せるもんじゃないんですよ。出せないから抑圧する。抑圧したものをどこかへ持ってく。それが結局、いろんな問題が起きて来てるわけですね。
ですから、私は、無関心が、つまり、ある意味で、決して意図的には無関心じゃないけれども、子どもとの、子どもの傍にいない親、父親、母親、そういうものが、親ってものは、ひとつの問題を作る原因を僕は持ってると思います。これは、ひとつ、考えていただきたいと思います。
そこで、この人たちはどうするかって言うと、敵意をどこかで出す。そうすると一番始めのうちは、どういうことかというと、自分と同じような種類の友だちと結び合って、そして、この、そういったものをね、お互いに一緒にやろうと、こういうことになるわけです。類は友を呼ぶと言いますけども、不思議に、人間っていうものは、あの、お互いにね、共通の弱さを持ってる人間の方が結ばれやすいんですね。偉いとこで、人間同士の友情と言った場合に、大変偉いところで結ぶ、素晴らしい性質を持ってるというところで結ぶことがあります。けれども、それよりも、お互いにこうだよね、というところで、言わば、連帯感を持つことが大変多いのです。
で、子どもの場合もそうなんです。だから結局ね、子どもの場合は、やっぱりね、自分と、類は友を呼ぶで、同じような人とね、結びやすくなる。そうすると、あんな子と遊んで!というふうにお母さんは言われるかもしれないけども、そりゃあ、子どもにとっちゃあしょうがない。そんなことだったら、お母さんよ、あなたが私に欲するものを与えて下さい、ということになるわけですね。
そういう意味で、私は、ひとつの、これを無関心、放棄タイプっていうかね、置き去りタイプ、そういうものになる。これ、旦那にもいるんですよ。無関心、置き去りタイプの旦那、いるんですよ。それを、だから、お母さんたちはご覧になって、自分がもしそうだったら、どうだろうか考えて下さい。無関心、置き去りで、仕事が大事なんだ、なんとかっていうんで、大変もう仕事ばっかりになっちゃって、うちへは帰って来ない。そういうときにあなた方はどんな感じがします?
これはね、あなた方の中にも、幼児性といいましてね、いいですか、子どもと同じものがあなた方にあるんですよ、みんなね、いいですか。だから、それだけにお母さんの方が子どもをわかりやすいの。それだから、僕はあなた方に余計、僕はアピールしたいんです、それをね。
そういう具合に、この、無関心、放棄型、あるいは、置き去り型というものが、という親があります。これはひとつの問題児を作って行く、ひとつのタイプであります。」(近藤章久講演『親と子』より)
現代なら、働いているお母さん方も多いことでしょう。
近藤先生のお話を現代風にアレンジするとすれば、ただ親が子どもの傍にいれば良い、という話でもないのです。
やっぱり重要なのは、そこに愛はあるんか、ということです。
例えば、諸般の事情からシングルマザーとして働いて、子どもと接する時間を持ちたくても、なかなか持てないお母さんもいらっしゃることでしょう。
じゃあ、その子どもたちが全員、敵意に満ちて非行に走るのかというと、そうではありません。
たとえ時間は短くても深い愛で子どもに接しているお母さんがいらっしゃいます。
愛は深さ×時間で、時間が短くても深さで勝負すれば良いのです。
そしてもうひとつ、近藤先生がさりげなくおっしゃったひとこと。
「人間っていうものは、お互いに共通の弱さを持ってる人間の方が結ばれやすい」
がこころに残りました。
だから私は、思い悩んだ経験のある人の方が、今苦しむ人のこころに寄り添いやすい、と思っています。
但し、その思い悩んだ問題を今は突破していることも要求したいと思います。
今もまだ問題が未解決のままだと、一緒に漂流するだけになっちゃいますからね。
だから私は、苦しんで突破して来た人こそが良い支援者になれる、と確信しているのです。