近藤先生が非常に難しい患者さんの治療に取り組み、ようやく治療に成功し、遂に患者さんは本来の自分を取り戻した。
「ありがとうございます。ありがとうございます。」と近藤先生に三拝九拝して感謝されたそうだ。
またある時、別の非常に難しい患者さんの治療に取り組み、紆余曲折を経て治療に成功し、遂に患者さんは本来の自分を取り戻した。
その経過を聴いて喜ばれた鈴木大拙は、近藤先生の両手を握り、涙を流して「ありがとう、ありがとう。」と感謝されたという。
普通ならば、相手に感謝されたとき、人間はちょっと遠慮して「いやいや。」「とんでもない。」と謙遜してみせることが多い。
しかし、近藤先生はそうしなかった。
これらの感謝の言葉に対して「ありがたいですね。」と応じたのである。
即ち、自分が治したのであれば、「オレが治した。」と誇ることもできるし、そう思いながらもちょっと謙遜して「いやいや。」「とんでもない。」と言うこともできる。
しかし、近藤先生の場合は、自分が治したという自覚はまるでなかった。
自分を通して働く力が、そして、その人を通して働く力が、治すのである。
だからどうしても返事は「有り難いね。」となる。
そして話を戻せば、鈴木大拙の「ありがとう、ありがとう。」という言葉も、実は近藤先生に対して言った言葉ではなかったことがわかる。
鈴木大拙が近藤先生に対して言った言葉は、実は、近藤先生に対してではなくて、近藤先生を通して働く力に対して言ったのである。
おわかりか?
よって、全ての手柄は、人間にはなく、あなたを通して、私を通して、この世界を通して働く力にこそあるのである。
褒めるべきは、讃嘆すべきは、この力だけである。
よって、キリスト教では「褒むべきものは神の御名のみ(褒められるべきは神さまの名前だけである)」という。
神の御名を唱えながら、これが仏教ならば、仏の御名を称えながら、というわけで、南無阿弥陀仏に落ち着くのである。
ありがとう/ありがたいね。