いつから感情は不当に扱われるようになったのであろうか。

「感情的」という表現は、一種の蔑視のニュアンスをもって使われている。
実際には、理性と同じように、感情もまた人間に与えられた一側面に過ぎない。
喜怒哀楽が起こることは、人間として極めて自然な現象であるはずだ。

むしろ私の経験からすると、感情蔑視の考えを持つ方々には、感情を抑圧して来た人が多く、その生育史の中で、感情、特に怒りと悲しみの表出を親や大人たちから禁止されて来た(下手に怒りや悲しみを表出すると親や大人たちから攻撃されて来た)人が多い。
なんのことはない、自分が恐くて感情を出せないことを正当化するために、感情を出している人を「みっともない。」「恥ずかしい。」などと卑下するのである。
それはズルいでしょ。
それならば
「私はへタレで感情を出すことができないが、出せるあなたが羨ましい。」
と言う方が遥かに正直である。

確かに、病んだ感情表出であれば、それは願い下げてあるが、
素直な凡情としての感情表出は、豊かであり、時に美しくさえある。

かの孔子が、最愛の弟子顔回を亡くしたとき、人目も憚(はばか)らず、慟哭(どうこく)して泣いたという。
「先生が慟哭された!」と言った従者に対して孔子は、
「慟(どう)すること有るか。夫(か)の人の為(ため)に慟するに非(あら)ずして、誰(た)が為にかせん。」
(慟哭していたか。この人のために慟哭するのでなかったら、一体誰のためにするんだ!)

と言ったという。
形式的な虚礼を排し、想いの出どころを大切にする、孔子らしい姿であった。

 

 

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