子どもの頃、夕飯がすき焼きだったとする。
男ばかりの四人兄弟であったが、野菜が先になくなり、いつも最後に牛肉が残った。
また、別の夜、夕飯がコロッケだったとする。
大皿に盛られたコロッケをそれぞれの皿に取って食べるのだが、いつも最後にコロッケがひとつ残った。
ある日、母親が親戚のおばさんに“自慢げに”話していた。
「いつも最後に牛肉やコロッケが残るのよ。うちの子は誰も取らないの。」
それは、うちの子どもたちがどれほど謙譲の美徳に優れているか(ガツガツと取り合ったりしないこと)を誇りたかったのである。
母親のその考えを感じ取っているからこそ、子どもたちは残った牛肉やコロッケに手を出さなかっだ。
手を出せば、さもしいと見下される。
紛れもなく、偽善の謙譲であった。
その後、実家を離れて一人暮らしを始めた四人兄弟各人は、それぞれ食べたいだけ食べられる自由を謳歌したが、人前に出ると、まだその偽善の謙譲は力を持っていた。
そしてようやくその呪縛から脱したのは、本当に人を愛するということを知ってからであろう。
どんなものでも、たとえそれが大好物であっても、自分が空腹であっても、”自然に”差し出せて、相手の喜んでいる顔を見て、こちらも心から嬉しくなる。
それはもちろん食べ物だけの話ではない。
そんな世界がある。
偽善の謙譲ではなく、本当の愛は自ずと我欲を薄めてくれることを知ったのでありました。