二十代の頃だったろうか。
知人が
「まっちゃん、話を聴いてくれよ。」
と言って来た。
格段親しい男ではなかったが、伏し目がちにそう言う彼には、ただならぬ雰囲気があった。
「いいよ。」
そうして彼は話し始めた。
彼にはずっと片思いの女性がいたそうである。
悩み抜いた末に、思い切って彼女に声をかけ、今日、喫茶店で逢って来たのだと言う。
結局、踏み込んだ話はできないままに終わり、アパートに帰って来たのだが、洗面所の鏡に映った自分の姿を見て、ハッとした。
「どうしたんだ?」
という私の問いに、彼は自嘲気味に答えた。
「ブレザーの左襟が立ってたんだよ。」
一瞬にして彼の言いたいことがわかった。
彼が彼女と逢っていた間、ずっとその襟は立っていたわけだ。
彼女はそれを直さなかった。
少なくとも指摘もしてくれなかった。
それが彼女の彼に対する関心の度合いであった。
彼がそんな格好で街を歩いていようと、どうでも良かったのである。
それが答えだった。
当時の私がうまいこと言えるわけもなく
ただ
「辛いな。」
と言うと、
彼はしばらく黙ったあと
「ありがとう。」
と言って、席を立って行った。
ラブストーリーの映画を観ていて、何十年ぶりかでそんな話を思い出した。
胸の中がチクチクする話だった。