本来は、暦の上のどの一日も、二度と戻るものではなく、等しく尊いものである。
しかし、愚かな凡夫にとっては、どこかで区切りを付けないと、どの日も等しく尊いどころか、どの日も等しくどうでもいい日にしかねないため、「元日」という心機一転の区切りをつけている。
そういう凡夫のための暦の“からくり”については既に述べた。
そして、現行の新暦(太陽暦=太陽周期で「計算」)以前(明治初期まで)には、旧暦(太陰太陽暦=太陰暦(=月の満ち欠けで「計算」)+太陽暦)というものがあった。
しかし、これもまた日付がちょっと違うだけで、これこれこういう日を「元日」(旧正月)と「計算」し、それを区切りとするという考え方は旧暦も同じであった。
また、「二十四節気」による「立春」という区切りの付け方がある。
一年で最も昼の時間の長い夏至と、最も短い冬至を中心に決めたもので、平気法と定気法があるそうであるが、いずれにしても一年を二十四等分して「計算」し、そのスタート地点を「立春」と決めるという意味では、新暦、旧暦と五十歩百歩の考え方である。
が、しかし、である。
「二十四節気」だけは、旧暦や新暦と違って面白い点がある。
それはそこに「気」という言葉が入っているという点である。
そう。
この日を起点に「気」が変わるのである。
そういう「感覚」がその根底にあるのではないかと私は思っている。
いや、私としては、もう一歩踏み込んで申し上げたい。
「あれ、なんだか今日から『気』が変わった。」と感じて、その日を「立春」としたのである。
「気」が先。
「計算」などどうでもよくなってくる。
ある朝、起きてみて感じる。
外に出てみて感じる。
天を仰いでみて感じる。
この世界に満ちる「新たに」という強い力。
そうして初めて「新たな年」が始まった、と言いたくなるのだ。
その「気の変化の感得」が先で、それでできたのがそもそもの「節気」というのが、私の個人的見解である。
その方が遥かに面白い。
面白いというより真実だと私は思っている。
「計算」という「理性」は、「真実」を感得する「感性(あるいは霊性)」の鈍い人たちのためにある、というのが私の見解だ。
元日くらいちょっと変わった、こんな話をしても良いだろう。
そんな話を近藤先生とよくしていたなぁ、と懐かしく思い起こす元日であった。