認知症疑いの高齢者の方に検査を行う。
わからない問題に接したときに
「わかりません。」
とフツーに答えられる方がいる。
大したもんだと敬意を覚える。
高齢者だけではない。
例えば、注意欠如多動症疑いの方に検査を行う。
できないことに関して
「できません。」
とそのまま答えられる方がいる。
これまた大したもんだと敬意を覚える。
わからないこと、できないことが顕わになる検査を受けることは幸せな気分ではない。
きまり悪そうに、申し訳なさそうに返答される方も少なくない。
高齢者の場合、振り返って同伴者に助けを求める方もいらっしゃる。
中には、できないとキレ気味に怒り出す方もいらっしゃる。
そうはならず、自分にとって不利なことも、偽らず、飾らず、そのまま認められる方がいらっしゃる。
やっぱり大したもんだと敬意を覚える。
お気づきの通り、これはできるかできないかという障害の問題ではなく、潔く認められるか認められないかというパーソナリティの問題である。
確かに、できないことを認めたくない(否認したくなる)のも、我々人間の、偽らざる見栄っ張りな一面である。
しかしその一方で、いつまでも事実を認めようとしない自分もなんだかなぁ、と思えるのも、我々人間の、有り難く尊い一面である。
その闇と光。
やはり、どうせ生きて行くなら、どうせ人と関わって行くなら、その光の部分に希望を持って生きて行きたいと思う。