路線バスに乗っていた。
かなり混み合っている。
あるバス停に着く。
何人か下車して、もう一人若い女性が下車しようとしたところで、運転手はドアを閉めて発車しようした。
女性が「あ、降ります。」と言うも、声がか細くて運転手に届かない。
無情にもバスは発車してしまった。
気まずそうにしている女性。
ああ、昔の自分なら、あの女性と同じ顛末になっただろうな、と思う。
抑圧が働いて、十分な声が出なかったのだ。
言うなら言う、言わないなら言わない、がはっきりしなかった。
今なら「降ります!」ても「降ろしてくれ!」でも、大声で何でも言えるのだが、かつての私も、言ってるんだか言ってないんだか、全てが半身であった。
そして、そこからさらに、「で、どーする。」という問題が起こって来る。
まず、乗客はみんな沈黙していた。
誰かが「あ、降りる人がいまーす!」
と言ってあげても良かった。
そう言えなかった人にも、五十歩百歩の抑圧が働いていたと言える(そうでなければ冷酷である)。
その上で、以前申し上げたことを思い出していただきたい。
彼女は大人である。
子どもでも認知症高齢者でも言えない障害がある人でもない。
となれば、やたらと手助けすることは、大人の彼女が持っている力(潜在能力も含めて)を侮(あなど)っていることになる。
彼女自身が自分ではっきりと言えるようになることこそが重要なのだ。
ここを踏まえた上で、
まあ、今回だけは助け舟を出してあげるとするか、ということで「降りる人がいまーす!」と言ってもいいし、
いつでも「降りる人がいまーす!」と言えるのだけれど、敢えて黙っていて(抑圧で言えないのではない)、彼女の未来の成長を願って言わないでいるのもいい、と私は思う。
そして、どっちを選ぶかは、“私”や“あなた”が考えて決めるのではなく、“おまかせ”である。
あなたを通して働く力が、「言え!」というなら言うし、「言うな!」というなら黙っている、のである。
どうせなら、その境地まで行きたいね。