自分で言うのもなんだが、私は腹の底から納得しないと絶対に謝らない性質(たち)である。
寄ってたかってどんなに責められようとも、自分に非がないものは謝らない。
逆に、自分に非があると思ったら、求められなくてもこちらから謝る。
随分、頑固、強情だな、と自分でも思っていたが、そんな態度もまだまだだな、と思う経験が今までに二度あった。
ひとつ目は、以前、お茶の水の喫茶店で一人コーヒーを飲んでいたとき。
通路を挟んで隣のテーブルで、背広を着たサラリーマンらしきおじさん二人が何やらもめている。
聞くともなしに聞こえて来た内容からすると、営業マンと取引先の担当者らしく、担当者のおじさん(五十代くらいの細身で長身)が営業マンのおじさん(四十代くらいの太って中背)に向かって盛んに怒っている。
伝わって来る内容からして、結構、面倒臭そうなおじさんで、いちゃもんに近い御託を並べているように聞こえる。
それに対して、営業マンのおじさんはさっきから平身低頭で、ペコペコペコペコ謝っている。
ああ、気の毒に可哀想だな、と思って、営業マンのおじさんの方を見て驚いた。
それほど責め立てられているのに、その営業マンのおじさんは卑屈になるどころか、全く動じていないのである。
確かに表面的には、テーブルに額をぶつけそうな勢いで何度も頭を下げ、「申し訳ありません。」「すみません。」と連呼している。
しかし、気持ちが全く動じていないのが伝わって来るのだ。
こりゃあ、したたかだなぁ、と思った。
それまで私のまわりにはいなかったタイプの人間である。
これならどんなに謝り倒しても、なんだったら土下座しても、全く自尊心は傷つかず、屁の河童であろう。
こういう海千山千のしたたかな強さもあるのだ、と思った。
これなら平気で謝れる。
そうしてもうひとつは、近藤先生である。
あるクライアントがそれこそ、いちゃもんをつけてギャースカピースカ言って来た。
しばらく黙って聴いていた先生が、「それは悪かったね。ごめんなさい。」と静かに言われた。
先生、なんでそんなヤツに謝るんですか!?と私の気持ちはいきり立ったが、それを聞いたクライアントの熱がスッと冷めた。
そう。グズっている小さな子どもを、大きな大人が優しく抱きとめたように見えた。
そこに愛があったのである。
愛があるから理不尽なことに対しても謝れる。
なんだかとても深くてあったかいものを見せていただいた気がした。
(誤解のないように付け加えるならば、いちゃもんに対して近藤先生がいつもこのような対応をされていたわけではない。ド迫力の気合いでブッ飛ばされた場合もあった。それは臨機応変・自由自在である。しかし、いつもそこには愛があった)
海千山千のしたたかさで、理不尽なことでも平気で謝れるようになりたいとは思わないが、
本当の意味で相手を育てるためであるなら、理不尽なことでも謝れるようになりたいと願えるようになったことで、私のつまらない頑固さ、強情さを崩していただいたのは、実に有り難いことであった。