時々、三遊亭圓生(六代目)の落語を聴く。
事務作業をしながら、You Tube を流し聴きをしていることが多いのだが、
ふと不思議に思ったのが、江戸末期~明治初期の庶民に使われた「~でげす」「~でがす」という言葉を使い、また、噺の中でも「へへへ」と笑うような、言わば“下賤な”表現を多用しているにもかかわらず、その話しぶりが全く“下品”にならない、いやいや、それどころか非常に“品格がある”のである。
これは面白い。
そう思えば、その反対もある。
身なりから、立ち居振る舞いから、言葉遣いから、出自から、学歴から、非常に行き届いて、羨望されるべきものがありながら、どうやっても“下品”になる人がいる。
なんとも拭い難い、隠し難い“下品さ”が漏れ出て来る。
となるとやっぱり行き着くところは、“人格”、“人品”よるのであろう。
圓生も、余り褒められたものではない数々の行状も伝わってはいるが、特に年を取れば取るほど、紛れもなく圓生、どこを切っても圓生になっていく。
そこに、どんなにへりくだって下賤に見せようとも、その芯に己が己であることの矜持がある。
それに比べ、はからいがあると、どうも人間が浮いて来る、嘘臭くなる。
そのはからいに卑(いや)しみがある。
“人格”、“人品”の出どころ、いずこにありや、である。
よって、「圓生みたいになりたいなぁ。」と思うべからず。
「圓生が圓生であったように、私も私になりたいなぁ。」と思うべし。