よく言われることであるが、対人援助職の人間は、自分のことを二の次にして困っている人に尽くすことが多い。
美談のように言われることが多いが、私は必ずしも美談だとは思っていない。
その行為の出どころに、時に神経症的なものが臭うからである。
困っている状況にある人に、かつての自分=親や大人たちに寄り添われず、孤立無援の中、苦しんでいた自分を投影し、その穴を埋めるかのように、他者援助に没頭する人がいる。
誰かが苦しんでいるとじっとしていられなくなり(ここまでならフツーにもいるかもしれない)、もし何もしないでいたら罪悪感に苛まれる(これがあったら間違いなく神経症的である)。
また同時に、寄り添われなかったことに由来する自己評価の低さがあるため(子どもは親から十分に寄り添ってもらえないと自分の存在価値はないと感じる)、自分以外の誰かに貢献して(他者貢献性)初めて自分の存在価値を感じる人もいる。
そしてこういう支援は、往々にして的外れの過剰支援になりやすい。
何のことはない、どちらの対人援助も、相手のためのように見えて。実は自分のためにやっていたのである。
だからね。
聖書に
「医者よ、汝自身を癒せ」(『新約聖書』ルカ傳福音書)
とあるように、まず自分自身が癒されること。
そっちが先。
私がよく申し上げている譬えを使うなら、まず空っぽだったあなたのグラスが、水でいっぱいに満たされ、そこから溢れ出た水が他者のグラスを潤す。
あなたのグラスが空っぽのままの他者援助は神経症的であって、申し訳ないけれど、美しくないのである。
孔子の教え、儒教について、ある心学者がこう言っていた。
「儒者とは濡者である」
流石にわかってらっしゃる。
まず儒者自身が濡(うるお)って、そして出逢った人をも濡(うるお)す。
この順番は譲れない。