我が国の精神障害者の家族会は、精神障害者の親を中心に運営されて来た歴史がある。
随分後になってから、精神障害者を同胞=兄弟姉妹に持つ人たちの会も作られ、熱心な活動も行われて来たが、親の会ほどの活動には至っていないように思う。
また、精神障害者を親に持つ子どもの会も作られ、これも熱心な活動が見受けられるが、親の会ほどの活動には至っていないと認識している。
もちろん、頭記の家族会の中に参加しておられる同胞、子どもの方もいらっしゃるが、個人的には、親か、同胞か、子どもかで、抱えているものに、共通の部分と、異なる部分とがあり、やはり親には親の、同胞には同胞の、子どもには子どもの、特化した支援も必要ではないかと思っている。
今ここでその活動の全貌を挙げることはできないが、特に気になる2点だけ記しておきたいと思う。
例えば、同胞の場合、「暗に」親から、親亡き後の同胞の世話を託される場合がある(その伏線は随分早くから始まっている)。
そうでなくても、同胞には同胞の、自然な同胞愛があるのだが、それが親に託されて義務と化すと、一気に負担感は重くなる。
時代は、家族が看る時代から、社会が(地域が)看る時代に変わりつつある。
同胞には同胞の人生がある。
同胞が自発的に支援したいというのなら良いのだけれど(「自発的に」を無意識に演じている兄弟姉妹もいるのでご注意を)、少なくとも義務的心理的負担感からは解放されてほしいと願う。
もし同胞として苦しんでいる方がいらっしゃるならば、一人で思い悩むことなく、是非、専門家に相談してほしいと思う。
そして、子どもの場合、特に親が亡くなった場合の「罪悪感」が気になっている。
そもそもそれは親のせいではなく病気のせいなのだけれど、結果的に、小さい頃からせざるを得なかった苦労は想像に余りある。
親への愛憎は子どもの中に蓄積されている。
その親が亡くなった。
素朴な子どもとしての悲しみがある一方で、清々した思いも禁じ得ない。
また、そんな気持ちになっている自分に対する自責の念や、ああしてあげれば良かった・こうしなければ良かったという悔恨の念が子どもを苛む。
それもまた一人自分の胸にしまい込んで苦しみ続けるのではなく、是非、専門家に相談してほしいと願う。
それが親であろうと、同胞であろうと、子どもであろうと、一人ひとりの生命(いのち)は、その人がその人を生きるために授かったものである。
どうかあなたを生きて下さい。