近所の居酒屋に出かけた。
しばらくして大学生と思(おぼ)しきアルバイトのお兄ちゃんが店に入って来た。
着ている山吹色のTシャツの背中に縦書きの筆文字で「不染汚」と大書されている。
「おっ、不染汚(ふぜんな)か。」
と箸が止まる。
不染汚は、禅宗では「ふぜんな」、天台宗では「ふぜんま」とよみ、
染汚が、文字通り、汚れに染まる、煩悩を意味するのに対し、
不染汚となると、汚れに染まらない、煩悩に染まらないことを意味する。
やがて、奥で黒いTシャツと前掛けに着替えたお兄ちゃんが料理を運んで来る。
思わず尋ねる。
「不染汚ってTシャツ着てたけど、仏教系の学生さん?」
「いや、高校時代の部活のTシャツです。」
との返事。
それ以上は追究しなかったが、仏教を知る先生が選んだのかもしれない。
不染汚となると、やはり蓮の華が思い浮かぶ。
泥より咲いて、泥に染まらぬ蓮の華。
泥の中から咲いて、泥に染まらぬどころか、泥を栄養にして、清浄(しょうじょう)な蓮の華を咲かせる。
それはまさに菩薩行だ。
如来(仏)になってしまって、蓮の臺(うてな)の上に安穏と座っていれば良いものを
敢えて如来にならず、わざわざ菩薩に留まって、娑婆という泥の中に入って衆生を救う。
しかし本人は全く泥には染まらず、むしろ衆生救済(くさい)という美しい華を咲かせる。
あのお兄ちゃんが不染汚の真意をどれだけ把握しているかはわからないが
彼の中にある仏性の可能性を示すものとして
背中の不染汚はなかなかのものであると一人合点し
いつもよりちょっと酒の旨い夜であった。