今日はわけのわからない話をする。
先日、庭で草むしりをしていて、誤ってレンゲショウマの葉茎を抜いてしまった。
毎夏、俯きかげんの可憐な花を咲かせてくれていたのに。
随分、後になって、そのことに気づき、「ああ、殺してしまった。」と悔恨の想いに苛まれた。
凡夫は、自分「が」レンゲショウマ「を」殺してしまった、とレンゲショウマ「に」執着し、私「が」嘆くのである。
本当は、自分も虚構であり、存在すべてが虚構であり、この世界が虚構なのに。
それなのに、虚構が実体性を持って感じられ、その上で自他の区別が生じ、私「が」レンゲショウマ「について」嘆くのである。
よって、有り難くも、念仏すれば、自我が薄まり、レンゲショウマが薄まり、この世界が薄まり、私の嘆きも薄まる。
研修医の頃、小児外科を目指しているという同僚の話を聞き、自分には絶対なれないな、と思ったのを覚えている。
手術を失敗したときはもちろん、失敗ではなくても難しい手術でもし子どもが死んだとしたら、自分には耐えられないと思った。
「子ども」という存在が強烈に「私」という存在を惹起する、「私」を立たせるのである。
これも普通人にとっては普通の話であろう。
普通人の別名を凡夫という。
凡夫は、自分「が」子ども「を」殺してしまった、と子ども「に」執着し、私「が」嘆くのである。
本当は、自分も虚構であり、存在すべてが虚構であり、この世界が虚構なのに。
それなのに、虚構が実体性を持って感じられ、その上で自他の区別が生じ、私「が」子ども「について」嘆くのである。
よって、有り難くも、念仏すれば、自我が薄まり、子どもが薄まり、この世界が薄まり、私の嘆きも薄まる。
この消息については、良寛の話をどこかに書いた。
近藤先生の友人で、手術のときに念仏する外科医がいたという。
それが、手術室でみんなの前で声に出して称えるのか、心の中で称えるのかは知らないが、その気持ちはとてもよくわかる(知らない人がこの外科医の念仏を聞いたら「縁起が悪いからやめてくれ。」と言うだろうが)。
たとえ真実においては虚構であろうとも、虚構と思えず、実体性をもって感じて、執着する凡夫にとっては、救いがなければならない。
そうでなければ凡夫には耐えられない。
南無蓮華升麻大菩薩の日であった。
[追記]
今回は、念仏のもたらす「仮」について書いた。
「実」について書く日はいつか来るのだろうか。
それもまた、おまかせである。