受精卵から分化・発生して行く過程で、我々は身体を獲得する。
皮膚によって内外を区別され、その内側の存在こそ、私の身体なのだ。
そして脳に芽生えた“自我意識”がそれを“私の身体”として認識する。
仏教において、百八つの煩悩のうち、「我見」(自我意識=自我があると思うこと、自分がいると思うこと)と「我身見」(自分の体が(他と別に)あると思うこと)の二つを根本煩悩としているのは、流石と言わざるを得ない。
「我見」(自分がいると思うこと)と「我身見」(自分の体があると思うこと)がほぼ同時に発生するのだ。
そして、ここからすべての「苦」が始まる。
何故ならば、「我」=他と違う自分が生じた途端、そこに「我欲」(自己中心性(本当は自我中心性と言いたいところであるが))が発生する、精神的にも精神的にも「我」の満足=「我の思い通りになること」を要求するからである。
それ故、我々は、今に至るまで、我の思い通りになれば喜び(あのガッツポーズを見ればわかるだろう)、
我の思い通りにならなければ怒り、悲しみ、苦しむのである。
しかし、残念ながら、この世の大半は思い通りにはならない。
従って、この人生は、苦しいことのみ多かりき、ということになる。
そんな中で、子どもは成長して行く。
まだ母親のお腹の中にいるときには、かろうじて臍の緒でつながっていた。
わずかに母子=自他の一体感が残っていたかもしれない。
しかし出生するや否や、それは断ち切られ、「我見」「我身見」が完全に成立する。
そしてその後、少しずつ大きくなって行くということは、生きるエネルギーも増大して行くということであり、我に備給されるエネルギーも増大して行くことになる。
それが「イヤイヤ期」であったり、別に「〇〇期」とつけなくても、我が活発に働けば、思春期はもちろん、大人に至るまで、この「思い通りにならなければイヤだ」という我欲の主張は続くことになるのである。
で、どうするか。
それでは、どう子どもを育てるのか。
通常の精神分析や精神療法、発達心理学的見地からは、この我欲をコントロールすることが要求される。
そのために、すぐに全部思い通りにならなくても(「すぐに全部思い通りにしたい」という欲求を「幼児的欲求」ということは既にどこかで述べた)、それを抱えていける力や、場合によっては諦めることのできる力をトレーニングして行かなければならない。
それが教育なのである。
極めて手のかかることであるが、親は、大人は、辛抱強く子どもに付き合いつつ、スモールステップで、体験的に教えて行くことになる。
ここで、我が子を思い通りにしようとすること自体に、親の我欲があることも忘れてはならない。
そして最後に、この問題の根本解決として、「無我」というものがある。
思い通りになることを願って止まない「我」がなくなってしまえば、少なくとも薄まってしまえば、問題は消える、少なくとも非常に楽になる。
但し、これは子どもには無理である。
長年、我の問題で相当苦しんだ人間でないと「無我」を志向することはまずない。
よって、関わる大人の側、親の側が、呼吸/念仏/瞑想などによって、自分を超えた力によって「我」という幻想を持って行ってもらい、ほんのわずかでも「無我」の体験をいただくのである。
自分で乗り超えられない、無能、無力、非力の凡夫にはその道しかない。
そしてもし運が良ければ、「我」を持って行ってもらうだけでなく、あなたを通して働く子どもへの「愛」を授かるかもしれない。
それが子どもの(我ではなく)生命(いのち)を育てて行く。
以上、これでも簡便過ぎて、意を尽くしたとは言えないが、いくら書いてもキリがないことでもある。
どなたか一人でも何かを感じるきっかけになれば幸いである。