欧米においては、「自我」の存在は、精神分析的にも、発達心理学的にも、当然のものとされている。
しかし、東洋では、少なくとも仏教においては、かの蓮如上人が「仏法には無我と仰(おほ)せられ候(さふらふ)。我と思うことは、いささか、あるまじきこと也(なり)。」と示されたように、「自我」があると思うこと=「我見」は、百八つある煩悩の中でも根本煩悩に数えられて来た。
ここに決定的な違いがある。

よって、私が教育分析を受けていた頃、「自我」の存在を自明のものとして構築されている精神分析の体系に疑いを抱いたのである。
虚構の上に建てられた体系に何の意味があるのか。
急速に精神分析への関心がなくなったのを覚えている。

そして既に「無我」の体験のある近藤先生が何故、精神分析を用いておられるのか、が次の疑問として浮かんで来た。
この答えは実に簡単であった。
人類の大半は、「自我」という幻想の下に生きているからであった。
生育史にとらわれる「私」も、トラウマにとらわれる「私」も、苦悩する「私」も、存在すると思っている。
「無我」の体験などありはしない。
従って、「自我」の存在を前提とした精神分析が治療として機能したのである。
そのためのものだったのか。

私の思うところを観抜いた近藤先生は、それまでの「教育分析」をやめ、「自我」を超えた精神的境地の世界への指導に重心を移された。
不思議なことに、それと同時に、私の中では、凡夫を救うための精神分析、精神療法というものが復権した。
「自我」に生きる者の抜苦与楽もなければならない。

それらが現在のわたしのサイコセラピーを形成している。
一方で、「自我」には「自我」の救いのための精神分析、精神療法を行いながら
難行としての「自我」を超える道=「(竪超というよりは)竪出(けんしゅつ)」と
易行としての「自我」を超える道=「横超(おうちょう)」とを示すことである。

そしてその上で、例えば、その発達過程において、「自我」という幻想を獲得して行かざるを得ない、子どもたちの哀しき定めと、それにどう応じて行くかについては、また明日触れよう。

 

 

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