すぐにビビる人がいる。
すぐにアワアワして何も言えなくなる人がいる、小さな声、こもった声しか出なくなる人がいる。
すぐに心臓バクバクになる人がいる。
すぐにカチンコチンに固まってしまう人がいる、動きがぎこちなくなる人がいる。
すぐに手汗、冷や汗をかく人がいる。
すぐに目を逸らす、目を伏せる人がいる。
すぐに逃げる人がいる。
すぐに誤魔化す人がいる。
すぐに保身のウソをつく人がいる。
ヘタレな人を表現しようと思ったら、いくらでも表現が出て来る。
生まれつきそんな赤ちゃんがいるわけではないことを思うと、ヘタレは生育史の中で作られることがわかる。
子どもは自分で自分の生育環境(親などの人的環境が特に大きい)を選べるわけではないので、その人がヘタレになるのはその人のせいではないことになる。
従って、その人がヘタレになったからといって、その人を責めたり、バカにするのは間違いである。
その人が好きでそうなったのではないから。
しかし、問題はここからである。
ヘタレになってしまうことは仕方がないのだけれど、自分がヘタレであることに気づいて以降、それからどうするかは、その人次第となる。
つまり、ヘタレになることに責任はないが、ヘタレになってから(特に成人以降)は責任があるのである。
変えるかどうかは、変わるかどうかは、その人の責任なのだ。
よって、ヘタレのままでいいという人たちはそれでいいのだけれど、私と縁があるのは、ヘタレから脱したいと心から願う人たちであり、ただ願うだけでなく実際にヘタレから脱するために一所懸命に(ただいい加減にやるのでは意味がない)“行”をおこなう人たちである。
そこにも「情けなさの自覚」と「成長への意欲」が絡む。
それに、自分がヘタレっていて、いざというときに対人援助職が務まるのか、自分以外の人を守れるのか、という大きな問題がある。
そうなると成長するしかない、しかも必死になって。
そして、思ったよりもヘタレというのは根深い。
一所懸命にやらないと、ヘタレの一生に終わってしまいますぞ。
最後に、自分はヘタレではないと思っている人のために付け加えるならば、たとえどんな人間に対してもビビらなくなれたとしても、あなたはヒグマやホオジロザメと1対1で対峙してビビらないでいられるだろうか。
実は、脱ヘタレの道も、もうこれでいいということのない、エンドレスの道なのである。