昨日と似ていてちょっと違う話。

幼少期から母親にひどい虐待を受けて育った中年女性。
何があったかについてはっきり思い出せるようになったのも、つい最近のことだそうだ。
そして、ある日、診察の中で笑いながら私に語った話。
夫に、小さい頃、母親にこんなことを言われた、こんなことをされた、という話をすると
「それはひどい母親だね。」
「毒親だね。」
って必ず母親の悪口を言うから、もう話さないことにしました
と言う。

この話のからくりがわかりますか?
昨日の話と似てますよね。

つまり、
母親にこんなことを言われた、こんなことをされた、と言い、
その内容は、誰がどう聞いても、ひどい内容なので
聞いた人が「それはひどい母親だね。」「毒親だね。」と言うのは当たり前のこと。
それは子どもでも予想できる(しかし彼女自身は全く気づいていない)。
そう。
彼女は、自分からは絶対に「あいつはひどい母親だ。」「毒親だ。」と言わないで、
聞いた相手にその代弁をさせる。
これを昨日の表現に合わせて言うと、
他者に母親を非難する言葉を言わせて自分の怒りを満足させつつ=留飲を下げつつ、
自分は母親の悪口を言うような悪い娘にならないで済む=“良い娘”でいられる、ということになる。

大人からの身体的虐待(暴力)、心理的虐待(暴言)という執拗な攻撃を前に、小さくて弱い子どもは、強烈な恐怖感に支配されて、自分の怒りを徹底的に抑圧するしかない(間違って怒りを出せば、どんな恐ろしい目に遭うかわからない)。
従って、少しでも母親を非難・攻撃しようとすれば、そう思っただけで、強烈な恐怖感に支配されてしまうのである、大人になった今でさえも。
彼女の中には、いまだに怒りを抑圧させる恐怖の見張り番(母親)が住んでいる。

しかし、時が経ち、今になってようやく彼女の中の本音が蠢(うごめ)き始めたのである。
なんとかして母親への怒りを出したい、母親を攻撃したい。
しかし直接、罵倒するのは恐くてできない。
そうして編み出したのが、自分で攻撃せず、他人に攻撃させる方法なのである。
しかもまだ、それを意識してやろうとすると、恐怖感に襲われる。
従って、自分ではそうと気づかず(無意識に気づかないようにして)、
母親にこんなことを言われた、こんなことをされた、と人に話すのである(多分、これからも繰り返すだろう)。

そして、親からの虐待の場合、恐怖以外にもうひとつの要素が付け加わる。
それでも母親は、いとしい愛着の相手なのである。
どこかに、それでも母親に愛されたい、という切ない(そして幼い)願望がこもる。
そうなると、余計に母親を攻撃しにくくなる。

なんだか哀しいね。

だから、母親への怒りを、自然に、十分に、感じ、出せるようになるまで、ちょっと遠回りの方法を使いながら、長い時間がかかることになる。
でも、その道を進むしかない、本当の自分の人生を取り戻すためには

例えば、当事者がこの文章を読んで、怒りを感じ怒りを出して、本当の自分を取り戻したい、と決断できた場合には、向き合う準備ができており、「成長」の道を歩むことができるだろう。
しかし、当事者であるにもかかわらず、どこか他人事でピンと来ず、まだ「ふーん。」と言っているようでは、まだ向き合えない(準備ができていないのに無理矢理迫ることはできない)。そしてあとは寿命との競争になる。

できれば、間に合いますようにと祈るしかない。
一生はとても短いからね。

 

 

 

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