あるクリスチャンの中年女性。
面談の度に
〇〇さんにこんなことを言われました
△△さんにこんなことをされました
などとおっしゃる。
それはいずれも、誰がどう聞いても
ひどいことを言われた
ひどいことをされた
内容である。
そのため、それを聞いた人は、まず間違いなく
それはひどいですね。
それはひどい人ですね。
などと言うことになる。いや、そう言わされることになる。

すぐに気がついたのは
彼女は

〇〇さんにこう言われました。
△△さんにこうされました。
と起こった事実を述べるだけで、絶対に
ひどい目に遭いました。
本当にひどい人ですね。
などと、自分の思いを言わない、特に誰かを非難するようなことは絶対に言わないのである。

これはずるい。
狡猾で巧妙だなと思った。
つまり、そうすることによって、
他者に相手を非難する言葉を言わせて自分の怒りを満足させつつ=留飲を下げつつ、
自分は他者の悪口を言うような人間にならないで済む=“良い人”でいられるのである。

きったねー。

こういうのは怒りを抑圧する見張り番を埋め込まれて来た人に多い。

それで私はその女性に訊いてみた。
あなたがやっていることをキリスト教ではなんと言うんでしょうね?
しばらく考えていたが、バカではない彼女は目を上げて言った。
「偽善者…ですね。」
正解っ!
こういうことは、他人から言われるよりも自分で気がついた方が良い。
それに、それに気づける、それが言える人だからこそ、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」があると言えるのだ。
私は大いに褒めた。
そもそも我々は凡夫なので、いやいや、迷える子羊なので、ちょいちょい偽善者するに決まっているのである。
問題は、偽善者することにあるのではなくて、それに気づかない、それを認めないことにあるのだ。
気がつけば謙虚になる、そして、認めれば成長できるかもしれない。
ですからまず、ひどいことや、ひどい人については、ひどいと思って、ひどいと言って良いんですよ、はい。

 


 

お問合せはこちら

八雲総合研究所(東京都世田谷区)は
医療・福祉系国家資格者と一般市民を対象とした人間的成長のための精神療法の専門機関です。