今日はちょっとややこしい話に思われるかもしれないが、お付き合い下され。
可能な限り、端的に書きましょう。

仏教においては、人間の行為=「業(ごう)」というものを三種に区別する。
それが「身口意(しんくい)の三業(さんごう)」。
具体的には
「身業(しんごう)」=身体的行為
「口業(くごう)」=言語表現
「意業(いごう)」=心意作用
つまり、「体」「口」「心」ですること、である。
確かに、人間の行為はこの三つにすべて含まれる。

そして特に密教においては、衆生(しゅじょう)=生きとし生けるものの行いが本質的には仏の働きと同一であると考えているので、この「身口意の三業」を「身密(しんみつ)、口密(くみつ)、意密(いみつ)の三密(さんみつ)」とする。
即ち、具体的に何をするかというと、
「身密」=身体において手印(しゅいん)を結ぶ(手印:手指の組み合わせによって、ある仏、菩薩、明王(みょうおう)などの働きを象徴して表すこと[例]阿弥陀定印(あみだじょういん)
「口密」=口に真言(しんごん)を読誦(どくじゅ)する(真言(マントラ):ある言語表現によって、ある仏、菩薩、明王などの働きを象徴して表すこと[例]オン・バイタレイヤ・ソワカ(弥勒(みろく)菩薩の真言)
「意密」=心に本尊の観想(かんそう)を行う(観想:ある仏、菩薩、明王などの形や姿を心に思い浮かべること
である。

ややこしいように見えて、これは実によくできている。
身体的に手印を組み、
口に真言をとなえ、
心に仏像を思い浮かべれば、
他に何もできないのだ。

例えば、三密を行いながら、過去のことにとらわれ、まだ来ぬ未来を心配し、あいつのことを恨みに思うことなどできない。
つまり、三密が行われている瞬間、少なくとも我々がとらわれていることから解放されているのである。
よくできてるなぁ。
もちろんこれは三密の形の上での入門に過ぎず、三密相応、三密加持、即身成仏などなど、三密には果てしない深みがあるが、我々凡夫にはこの形だけでも大いに救われる。

しかし、愚かな凡夫はトホホなことに、この三密の実践すら覚束(おぼつか)ない。
そんなときは口だけでいい。
しかも真言もいいが、念仏でいい、祝詞(のりと)でいい、祈りでいいのである。
少なくとも、それをとなえている間だけは、とらわれから逃れられ、我々は救われるのだ。
つくづく先人たちの智慧は大したもんだと思う。
愚かな凡夫はやっぱり易行(いぎょう)=易(やさ)しい行でないと救われないもの。

そしてそんな易行も、何日も何カ月も何年も続けていると、ただとらわれから逃れられるだけじゃなくて、ちょっと違ったことが起きて来るんだけど、その話はまた、あなたの体験が実際に進んでからにしよう。

それでは、お付き合い、多謝深謝。

 

 

[注]密教専門書よりも『岩波仏教辞典』の表記が入門的にわかりやすく、多く引用させていただいた。

 

 

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