『古事記』において語られる「天地初発の時」(世界が生まれたとき)の話。

「天地初めて発(ひら)けし時、高天(たかま)の原に成れる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。次に高御産巣日神(たかみむすびのかみ)。次に神産巣日神(かみむすびのかみ)。…(中略)…次に国稚(くにわか)くして脂(あぶら)の如くして、くらげなすただよへる時、葦牙(あしかび)の如く萌(も)え騰(あが)る物に因(よ)りて成れる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)。次に天之常立神(あめのとこたちのかみ)。…(後略)」

これを読んで、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、天之常立神といった神々はみんな抽象神だ、ということを観抜き、
これら抽象観念をその名とする神々は後代の挿入であって、
宇摩志阿斯訶備比古遅神こそが最初の神だ、
と断じたのは益田勝美氏(『火山列島の思想』)だという(唐木順三氏の著書『日本人の心の歴史』によって教えられた)。

天地最初の神を、何も考えず原文通りに受け取って抽象神としてしまうのか、この国の霊性の伝統を考えて具象神に違いないと観抜くのか、には決定的な違いがある。
『古事記』と言ったって、原文を鵜呑みにすれば良いというわけにはいかないのだよ。
益田氏とそれを取り上げた唐木氏の炯眼(けいがん)に胸が震えた。

益田氏は言う、
「ウマシは賛美のことば、ヒコヂは男性の長老への敬称である彦舅(ひこぢ)、だから最初のウマシアシカビヒコヂの神にしても…(中略)…実は角(つの)ぐむ(角のように芽を出す)葦の芽、アシカビそのものの神格化以外のなにものでもないことがわかる。ー 天地のはじめ、陸地がまだ若く、くらげのやうに漂つてゐた時、一本の葦の芽の神が頭をもたげたよ ー さういふ原始の自然物に神を見る心…(後略)」

日々みるみる芽を出して伸びて行く葦の姿に神を観る、神の働きを観る。
それこそが、頭の先でこねくり回してでっちあげたような抽象神ではなく
“具体的なものの中に神を観る”、これこそがこの国の人間の霊性の伝統なのである。

この素晴らしい伝統を受け継いで行きましょうよ、皆さん。
この国に生まれて良かったと、今日もまたしみじみと思うのでありました。
(この感動がどのくらい伝わっているかしらん)

 

 

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