中学生の頃、私は何故か『論語』を愛読していた。
通っていた学校が旧藩校だったせいもあるかもしれないが、悩める中学生にとって、何か生きる指針が欲しかったのだと思う。
そうなると興味関心は広がるもので、『論語』だけでなく、段々と儒教の基礎経典である四書五経(四書=『論語』『孟子』『大学』『中庸(ちゅうよう)』、五経=『易経』『詩経』『書経』『礼記(らいき)』『春秋』)にも手を伸ばすようになった。
それらはかつて江戸時代の寺子屋のテキストであり、当時の人たちは何を精神的支柱として生きていたのかが気になったのである。

最近、その中の『大学』の解説書を読む機会が与えらえた。
通常、私は原典は読むが、解説書は余り読まない。
というのは「解説書」は、その「解説者」の境地の浅深によって、原典の内容が歪曲され、その価値が台無しになってしまう場合が少なくないからである。
しかし、今回は違った。
著者の意見に肯首することが多かった。
引用すればキリがないが、以下に二、三挙げる。

「昔は学問といったら人間学のことをいいました。そして知識・技術を学ぶ時務学のほうは芸といったんです。」
なんとも我が意を得たりである。
現代で学問と言っているものは、ただの芸に過ぎない。本当の学問とは、人間がどう生きるかということを考え、そして実際に生きることだったのである。真の意味での学と芸。まず学、そして芸。われわれ対人援助職においても、自分自身の学=人間としての生きざまを深めないで、芸=薄っぺらな知識と技術に走ることはなんとしても避けたい。どこまで行っても、学が先、学が本質なのである。

「この小学を内容からいいますと『修己修身の学』ということになります。自己自身をちゃんと修めていくほうに重点を置いたのが、小学というものであります。」
「大学の内容は、自己自身をますます修めていくとともに、他にも良い影響を及ぼすことができるように学んでいくことであって、いわゆる『修己治人の学』を大学というのです。」
小学から大学へ。これまた自分のことが先。そうして初めて他者に貢献することができる。
自分自身の成長課題や問題を見つめて解決しようとすることなしに、他者への援助ができるわけがない。

小学を経ての大学にこそ意味があるのである。

「人間には『徳』と『才』の両方が大切でありますが、才よりも徳の優れた人を君子といい、徳よりも才のほうが優れている人を小人というのです。」
徳はその人を通して働く天の働き。才はその人の個人的才能。
小才の利いた人間はまっぴらである。そうではなくて、徳に生かされる人間になりたい。

近藤先生とよくこんな話をしたなぁ、と思い出した。

そして「知行合一」。
有り難くも、現場を持つ我々は、それが頭の先の受け売り知識か、具体的言動に現れるほどのものになっているかが日々試される。
すぐにメンバーさんや患者さんに我々の境地が見抜かれるのである

厳しいけれど有り難い道だとつくづく思う。

 

 

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