『私と小鳥とすずと』  金子みすゞ

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥は私のやうに、
地面を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のやうに
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。


確か三十年以上前、出版されたばかりの全集を神田の店頭で見つけて、すぐに買い求めたのを覚えている。
哀しい生涯の人だが、澄んだ心根の詩を残した。
みすゞの言う通り
「小鳥」が本当に「小鳥」であり

「鈴」が本当に「鈴」であり
「私」が本当に「私」であるとき
「小鳥」と「鈴」と「私」の

「みんなちがって、みんないい」
が成立する


しかし
本当は「ネコ」なのに、頑張って「小鳥」のフリをして生きているヤツがいる。
また、本当は「笛」なのに、自分が「鈴」だと勘違いして生きているヤツがいる。
そして、本当の「私」を抑圧して、生育史の中で身に着けたニセモノの「私」で生きているヤツがいる。
そんなニセモノの「小鳥」と「鈴」と「私」では

「みんなちがって、みんないい」
とは言えない。

それどころか

「みんなちがって、みんなだめ」
なのである。

この詩を読んで「みんなちがって、みんないいのよね。」と安易に言いたがる方々が少なくないが、
この歌の前提として
「あなたは本来の自己を生きているのか」
という厳しい問いがあることを見逃してはならないと思う。

 

そして今風に言うならば、ニセモノの多様性(ダイバーシティ)と本物の多様性(ダイバーシティ)とを混同してはならない、ということもみすゞは教えてくれているのである。

 

 

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