先の『因果に想う』で書いた「善」と「悪」について追考する。

一体何が「善」で、何が「悪」なのか、ということである。

まずそのひとつに、我々がその生育史の中で、いつの間にか埋め込まれた価値観に基づく「善」と「悪」とがある。

例えば、昭和の寿司屋の大将が「親の言うことは聞くもんだ、べらぼうめ!」と言えば、親の言うことを聞くのが「善」であり、親の言うことを聞かないのが「悪」なのである。しかし、「親の言うことを聞く」ことは、封建的な時代では「善」であったかもしれないが、児童虐待や毒親の蔓延(はびこ)る現代でそれを要求すれば、それは子どもたちの心身を破壊する「悪」になるかもしれない。

この点にはよくよく気をつけておく必要がある。古今東西、誰にでも通用するような「あるべき姿」は、ありそうで実はそれほどないのかもしれない。あなたの「善」は必ずしも皆の「善」ではないのだ。その多くに、その人が身を置いた時代、文化、そしてその人の育った家庭、親などの環境から生育史を通して埋め込まれた価値観に基づくものが入って来ているのではなかろうか。

即ち、その「善」「悪」には、言わば、「超自我」(=後天的に埋め込まれた見張り番(~であるべきだ、~でなければならない))に基づいた側面がある。

そしてもうひとつは、『因果に想う』で触れたように、自分の思うようになることが「善」であり、思い通りにならないことが「悪」であるという「善」「悪」がある。

この出どころは、言わずと知れた我々の「我欲」(自己中心的欲求)である。我欲のままになれば、善き哉、善き哉、うっほっほ、であり、我欲のままにならなければ、何かが誰かが悪い、イヤぢゃ、なのである。

即ち、その「善」「悪」には、言わば、「(自)我」に基づいた側面がある。

そして三番目に、それらとは全く違う「善」「悪」がある。

以前、一休さんについて書いたときに引用した「七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)」をもう一度ここで取り上げよう。

「七仏通戒偈」とは、釈尊と釈尊以前に娑婆世界に現れた六人の仏を合わせた過去七仏が、共通に説いた教えのことであり、その四句のうち前半の二句、

「諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)」

がその偈の眼目である。即ち、

「悪いことをするな。善いことをしなさい。」

これが仏教の本質だというのだ。

唐の時代を代表する漢詩人のひとり、白居易(はくきょい)(白楽天)は、鳥窠道林(ちょうかどうりん)禅師に尋ねた。

如何(いか)なるか是(こ)れ仏法の大意。(仏法の大意とは何か?)

禅師答えて言うには

「諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)。」(悪いことをするな。善いことをしなさい)

白居易が言う。

三歳の孩兒(がいじ)もまた恁麼(いんも)いうを解す。」(三歳の子どもでもそんなことはわかっている)

禅師が言う。

三歳の孩兒も道得(どうとく)ならんと雖(いへど)も、八十の老人も行い得ず。」(三歳の子どもでも知っているというが、八十歳の老人でも行うことができない)

白居易は禅師に礼をなすしかなかった。

何故、八十歳の老人でも行うことができないのか、それほど難しいのか。

それは自分がするのではないからである。
人間を超えた大いなる働き(妙用(みょうゆう)、他力と言っても良い)が、我が身を通して働いて、何某(なにがし)かの行動が行われるとき、その行いが「善」なのである。
そして、妙用、他力によってではなく、埋め込まれた超自我によって、あるいは、自分の(自)我によって(はからい、自力と言っても良い)、何某かの行動が行われるとき、その行いは「悪」なのである。
ここに「善」「悪」の絶対的な定義がある。

そしてこの「諸悪莫作 衆善奉行」に生きるためには、妙用、他力におまかせするという生き方を体得していなければならない。
だから難しいのだ。八十歳の老人になってもなかなか行うことができないのである。

しかし、妙用、他力におまかせしてこその、絶対的な「善」。
いかに難しかろうとも、どんなに時間がかかろうとも、それを求めないではいられないというのもまた、妙用、他力の働きによるのである。

 

 

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