善いことをすれば善い結果になるという。
悪いことをすれば悪い結果になるという。
因果応報、よく聞く話である。
善因善果、悪因悪果とも言われる。

しかし仏教ではそれだけでなく、善因悪果、悪因善果も説く。
つまり
善因善果
善因悪果
悪因善果
悪因悪果
の四つがあるという。

え? それ、おかしいんじゃないの?
善因悪果、善いことをしたのにそれが報われずに悪い結果になったり、
悪因善果、悪いことをしたのに善い結果が舞い込んで来たりする。
それ、どゆこと?

ここに二つの問題がある。

ひとつは、何をもって「善い」といい、何をもって「悪い」といっているのかということ。
例えば、皆さんは「善い」結果と聞いて、どんなことを想像しますか?
お金持ちになる、社会的地位を得る、有名になる、健康で長生きをするなどなどでしょうか。
ちょっとこれらを見つめてみましょうよ。
これ全部、俗欲やん。
世俗的欲求。
あるいは我欲。
自己中心的欲求の満足なんです。

そう言えば、日本昔話の結末でも、おじいさんとおばあさんは長者になっていつまでも長生きしましたとさ、というのが多い。
これって、金と生への執着じゃん。

それが本当に「善い」結果なのか?
俗欲、我欲の達成が、本当に「善い」ことなんでしょうかね。

そしてもうひとつが、真俗二諦(しんぞくにたい)というお話。
真理には二つある。
ひとつが真諦(しんたい)=絶対的な真理。
もうひとつが俗諦(ぞくたい)=世俗的な真理。

実は上述の善因善果、悪因悪果も、「善い」「悪い」も、俗諦のお話。
世俗的な真理としては正しい、ということなんです。
言い方を変えれば、俗人(凡夫)の願いとしては正しいんです。

でも、善因悪果、悪因善果が出て来ると、そうはいかない。
「善い」ことをして来た人が報われず
「悪い」ヤツらが世の中にのさばったりする。
でも、それって現実にあることですよね。

東日本大震災で、なんであの人があんな亡くなり方をするの?
なんであの極悪非道の人物が、幸せな余生を送るの?
かつて高橋みなみさんがAKB総選挙で言っていました。
私は毎年、『努力は必ず報われると、私、高橋みなみは、人生をもって証明します』と言ってきました。『努力は必ず報われるとは限らない』。そんなのわかってます。でもね、私は思います。頑張っている人が報われて欲しい。」
たかみならしい「願い」です。

これが俗諦の考えです。

では、これが真諦(絶対的な真理)ではどうなるのか。

やはりここで良寛さん(江戸時代の越後の禅僧)のあの言葉を外すわけにはいかないでしょう。
以下は、良寛さんが、地震で子どもを亡くした知人に宛てた手紙の中の一節と言われています。
「災難に逢ふ時節には災難に逢ふがよく候(そうろう)、死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候」
(災難に遭うべきときには災難に遭うがいい、死ぬべきときには死ぬがいい。これこそが災難を逃れるこの上ない方法である)
あの子どもたちと手毬で遊ぶ良寛さんがよくこんな手紙を書いたと思いますが、これこそが真諦の言葉です。
凡夫の思い通りになることが「善い」ことで、思い通りにならないことが「悪い」こと=「災難」と思いがちですが、それらをすべて「時節」(=なるべきときになるようになる)におまかせすれば、「災難」は消えてなくなるというのです。

おわかりか。

そしてまたここで『旧約聖書』のヨブ記を挙げないわけにもいかないでしょう。
クリスチャンの方々はよくご存知の通りです。

信仰深きヨブは、神の命を受けたサタンからその信仰を試されます。
その苦難は苛烈を極め、財産を奪われ、愛する者を殺され、自身も皮膚病に侵されます。
しかし、ヨブが信仰を捨てることはありませんでした。
そしてこう言うのです。
「わたしたちは神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」
「主は与え、主は奪う、主の御名(みな)はほめたたえられよ」
ヨブは、幸福=善い結果も、不幸=悪い結果も、自分の欲によって区別しないで受け取るのです。
(関心のある方は是非、聖書の原文をお読み下さい)

もうひとつ『新約聖書』のヨハネによる福音書から因果に関わるところを。

「ラビ(ユダヤ教の師)、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業(わざ)がこの人に現れるためである」

視覚障害をはじめ障害者でクリスチャンの方々から、何度この一節をうかがったか知れません。
その度、「神の業がこの人に現れるためである」の一文に胸を突かれます。
それもこれも神の御業(みわざ)なのです。
だから、いただきましょう。

最後に有名な禅語を挙げておきましょう。

「至道無難(しいどうぶなん)、唯(ただ)揀択(けんじゃく)を嫌う」(僧璨(そうさん)『信心銘(しんじんめい)』)
(真実の道は難しくない。ただえり好みを嫌う)

我々が我(が)によって、あれが善い、あれが悪い、とえり好みをせず、すべてをおまかせし受容するとき、真諦(絶対的な真理)はここに現れるのです。

ですから、善悪を超えてしまえば
善因善果
善因悪果
悪因善果
悪因悪果
これら四つは結局どうだっていいことになります。

そして、こんなことを書いている私も立派な凡夫です。
ですから、きっと私に「悪い」ことや「災難」が与えられたとき、嘆き苦しむことでしょう。
ひょっとしたら、当たり散らして、天を呪うかもしれません。
しかしその後、すべてをおまかせし受容することが、ちょっとだけ早いかもしれません。

それが私に与えられた恩寵なのでありました。

 

 

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