宗教というものが、理性的だけれども(理性レベルに留まっているからこそ)鈍感な連中によって、酷(ひど)い扱いを受け、最も本来の宗教から遠い「宗教」(括弧付きの宗教)に、即ち、「妄想体系」や「妄想集団」に堕してしまっていることは残念でならない。

実は、多くの「宗教」賛同者も、「宗教」批判者も、その意味では同じなのである。

本来の宗教の語義としては、「大事な教え」という意味しかなく、それを明治期に religion の訳語に当てたときから不幸が始まった。

ひとのこころの真実を見つめ、ひとのこころの救済を目指す以上、宗教(「宗教」ではない)と精神療法がぶっ続きなのは当ったり前のことである。

それもわからぬ馬鹿(特に自己拡大的支配型)が、宗教と「宗教」の違いもわからず、「それは宗教だ。」と言う定番のセリフのには辟易(へきえき)して来た。

思えば、近藤先生ご存命中の頃、毎年浅草本願寺で行われていた先生の講演会に来ていたお弟子さんたちはほとんどいなかった。

当時の私ですら思った。「宗教と精神療法とは別だと思ってるんだ!?」

私個人は当然ながら、同じことを別の言葉で言っているに過ぎないと思っている。

しかし、宗教の方が圧倒的に歴史が長いために、たかだか歴史百年余りの精神分析や精神療法では、用語も概念も足りず、宗教用語を借りて来ざるを得ない場面がしばしば生じてしまう。

だが、そのときまた困るのが、宗教用語には既に、その宗教・宗派の“手垢”(先入観やイメージ)が付いているため、本意と別のニュアンスを帯びやすいということだ。

だから、用語として深い反面、誤解されやすいところもある。

私のひとつのトライアルとして、ホンモノの宗教とホンモノの精神療法は当然ぶっ続きであるということに取り組んで行きたいと思う。

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