昔、ひどい虐待を受けて育ったために、いつの間にか、話す端から嘘ばかり言うようになった青年の治療を担当したことがあった。

あるとき彼は決心した。

「もう嘘はつきたくない。本当に思ったことだけを言って、信頼し合える人間関係を作りたい。」と。

しかし、すぐに完全にというわけには行かず、彼の嘘は続いた。

それでも10回のうちの1回は、本当のことを言うようになった。

そして、10回のうちの2回、3回…8回、9回と段々と本当のことが言える割合は増えて行った。

幼少の頃から本当に思ったことを言って、散々酷(ひど)い目に遭って来た彼にとってそれは、とても勇気のいる立派な挑戦であった。

だからあるとき、彼が私に向かって言ったことが嘘だということはすぐに観抜けたが、私はそれを指摘する気にはならなかった。

今なりの彼なりの精一杯で必死に成長しようとしている彼に対して、誰が非難できようか。

勿論そんなことを私がいちいち考えてやったわけではない。

天が私をして見守らせたのである。

 

真宗の妙好人(みょうこうにん)(悟得した禅僧に優るとも劣らぬ境地を示す門徒たち)の逸話に以下のようなものがある。

讃岐(さぬき)(今の香川県)の庄松(しょうま)が、ある寺へ参詣したとき、住職がからかい半分に

「うちの御堂(みどう)のご本尊は生きてござろうか。」

と言うと、庄松は、

「生きておられるとも、生きておられるとも。」

と応じた。住職がさらに

「生きてあらっしゃるにしては、物を言われぬではないか。」

と言うと、庄松が、

「ご本尊さまが、物を仰(おお)せられたら、お前らは、ひとときもここに生きてはおられぬぞ。」

と言ったので、その住職は震え上がったという。

ここに阿弥陀の大悲がある。

 

先日、セラピストでもない生半可な素人が、相手のことを見抜けたように思い上がって、大はずれのことを言って、残酷に相手を攻撃して傷つけたことがあった。

ここで起きた二重の愚かさがわかるだろうか。

まず生半可な素人にそうそう相手が見抜けるはずがないということ。その自覚のない思い上がりが第一の愚かさである。

次に、それを全部相手に垂れ流したということ。この残酷さぶりが第二の愚かさである。

第一はその人間自身の愚かさで済むが、第二は極めて有害で、その汚さ、醜さ、気持ち悪さを私は許さない。

例えば、もしその当人自身が過去に自分が身近な人間に対してやってきたことの酷(ひど)さを(本人がまだ気づいていないことまで含めて)容赦なく全部指摘されたらどうなるであろう。

そしてさらに、現在も身近な人間に対してやっていることの酷さを(本人はもう大してしていないと思っている)容赦なく全部指摘されたらどうなるであろう。

その内容が(大はずれでなく)事実なだけに、「生きてはおられぬ」ようにすることは簡単である。

 

だから、人間が人間であるためには、自分自身に対する「情けなさの自覚」(=凡夫(ぼんぷ)の自覚)をよくよく肝に銘じておかなければならないのである。

上記の無縁の恥知らずに用はないが、これから有縁の人はどうぞ忘れるべからず。

 

【追伸】 いつも猛省した方がいい人間が全く反省せず、反省する必要のない人間が反省されるので、付記しておくと、八雲に通われている方(またはちゃんとしたセラピストのいる方)は、誰に何をどう言ったかを私(またはあなたの選んだセラピスト)と話しながら進めて行けば、正直かつ誠実な直球の表出はどんどん行っていって構いませんよ(というより、さらに表出を行っていった方がいい人の方が多いと思います)。必要があれば私(またはあなたの選んだセラピスト)がアドバイスしますから。あなたを思い上がった馬鹿な野良犬にはしません。

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