「母親が子供に乳房を与えているときに、急に何か用事ができて、途中で乳房を離そうとする。歯が少しはえてきている赤ん坊なら、離されまいとして乳房をきゅっとかむ。これは、子供にとっては、乳房を取られて、快適な状況から追い出されるということはいやなことですから、それをあえてしようとする母親に対して起こす反応です。
いままでの母親は、いつも自分に楽しいもの、気持ちのいいものを与えてくれた、ところが今度は、自分の大好きな気持ちのよいものを奪っていこうとする。それを奪われるのはいやだという反応として、乳房をかむということがよく起こります。この反応は私たち人間の最初の憎しみの現われではないかと思います。愛と憎しみという言葉の響きからは、何か調子の高い、むずかしいものであるという感じがしますが、ほんとうは子供のそうした反応の中にも、すでに出ているものなのです。
もし、その母親が非常に不安な気持ちの人であるとか、わがままな人で、子供のことをあまり考えず、自分の感情を中心とした態度をとる人であるときは、自分の気分のまま、乳房を与えたり、与えなかったり、抱いてやったり、抱いてやらなかったりするでしょうから、赤ん坊は抱いてくれるときは、母親に愛されていると思うし、抱いてくれないときは、愛されていない、憎まれていると思うということで、次第に愛と憎しみという両方の感情を感じるようになります。しかし、気分によって子供に対する態度がゆれ動くと、子供のほうでは母親はいったい自分を愛してくれているのか、愛してくれていないのかわからない、そういった不安をいだきます。
憎しみはそれだけではありません。自分が寂しい孤独な状況に置かれたことに対して、子供は『わあわあ』と泣くことによって、あるいはいうことを聞かないことによって、その気持ちをあらわすと、母親はおこります。すると子供はおこられたことに対して非常に不快な感じとか、怒りとか憎しみをおぼえます。
しかし一方、子供がそれをあまり表に出しますと、母親はさいを投げてしまい、置いてきぼりにしますから、子供のほうでは、そんなことをすると自分はまた孤独な状態に追いやられるという不安な気持ちになりますし、またそうなっては困ると思うから、できるだけ怒りや憎しみを表に出さないようにしようとします。いわゆるいい子になるわけです。しかしそこには、母親に対して、自分の気持ちをほんとうにわかってくれないとか、自分をほんとうに愛してくれないという、不信と疑念と憎しみが残ります。…
このように子供は、こういった怒りや憎しみの気持ちを表に表してはまずいから、自分の中に抑圧して、表面上はたいへんいい子になっているようにつくろいます。しかしこのような状態が続きますと、子供はだんだん他人の機嫌をうかがうようになり、顔色を見て、他人が自分にどういうふうな感じを持っているだろうか、また自分は他人にどういう感じを与えているだろうかという、対人関係の問題にいつも気をつかう神経質的傾向をやしなっていくことになります。
日本人は一般に、多少の差はあってもこの傾向があるわけですが、とくに神経質の人は強いものです。こういった他人の顔色をうかがったり、他人の意をうかがい、どういう気持ちを持っているだろうかということに心を配るということは、子供のときに母親の顔色をうかがい、その気分をしょっちゅう気にしているときから、まう発生することが多いのです。とくに先ほどのように母親が非常に不安定な気持ちの人である場合には、子供はよけい神経質になってきます。」(近藤章久『人間の愛と真実』ナツメ社より)
子どもが母親に対して愛と憎しみを抱くようになるプロセスを、近藤先生が非常にわかりやすく説明して下さっています。
いくら読んでもピンと来ない「アンビバレンス(両価性)」に関する観念的な説明よりも遥かにわかりやすいのは、その知識が受け売りではなく、本当に自分のものとなっているからでしょう。
そしてさらに、どうして我々が自分の感情を抑圧してしまうのか、他人の機嫌を窺い、顔色を見るようになってしまうのか、よい子になってしまうのか、そして私が言うところの他者評価の奴隷になってしまうのかが、導き出されています。
では、どう育てれば良かったのか。
母親もまたどう救われるべきであったのか。
子どもがそうなってしまった後、一体何ができるのか。
人は果たして生育史の呪縛から逃れられるのか。
そしてそして、子どもは、あなたは、わたしは、この一回しかない人生をどう生きて死ぬのか。
その(観念的でない生命(いのち)に響く)本当の答えを求めて、今回から『人間の愛と真実』を一緒に読んで行きましょう。