親鸞の残した和讃などを読むと、この人の凡夫の自覚はどこまで徹底しているのだろう、と舌を巻くことがある。
そのことをある念仏者と話していたら、その人は笑いながら、「ですから、私なんかはいつも余計に念仏しています。」と言われた。
念仏とは、南無阿弥陀仏と称えること。
阿弥陀仏におまかせする。即ち、愚かな人間は自力では救われようがないため、人間を超えた救いの力=他力におまかせします、ということである。
そうでもしていただかないと、我々、罪業深重の凡夫は救われないのだ。
そして、先の方は「余計に」念仏すると言われた。
自分で自分のことを振り返って、どんなにひどい凡夫だと気づいてみたところで、我々が気づけるのは、ほんの氷山の一角であり、気づくことも、認めることもできない、もっとひどい、もっと重い、もっと病的なところが常に存在するのである。
だから、自分が気づいている凡夫としてのひどさの自覚では、きっと全然足りないであろうから、足りない分も含めて「余計に」念仏しているというのである。
八雲総合研究所において「人間的成長のための精神療法」を受ける「対象」の条件として、「情けなさの自覚」ということを申し上げている。
実は、この「情けなさの自覚」において、上記と同じことが生じて来る。
それは何かというと、クライアントの皆さんは自分なりに、自分の問題や成長課題について内省し、自覚して、その解決と成長のために、八雲総合研究所にいらっしゃる。
しかし、「人間的成長のための精神療法」が始まってみると、遅かれ早かれ、自分で自覚していた問題や成長課題は、ほんの氷山の一角であり、もっと大きな、もっと深い、もっと本質的な問題がその背後に潜んでいたことが顕わになって来る。
勝負はそのときである。
それを改めて自分の「問題」として認められるか否か。
実は、そういう姿勢のことを「情けなさの自覚」というのである。
当初の「情けなさの自覚」などは、ほんの前座に過ぎない。
まさにそのとき、それまでの自分を全否定し、しがみついていたものを全部投げ出す覚悟がないと、ラスボスの登場までは耐えられす、闇の支配に舞い戻る。
それじゃあ、もったいない。
もう一歩でも、二歩でも、何歩でも踏み込んで、親鸞さんのように、光溢れる世界にまで到達させていただきましょうよ、ね。