私は可能な限り、「いつでもどこでも誰の前でも本来の自分でいること」を奨励している。
(今回は昨日の「そのときその場でその人に」の姉妹編である)
しかし大抵の人は、気心が知れた相手、子ども、部下、後輩、利害や力関係上こちらが有利な相手、もっと言えば、舐めた相手、弱い相手などの前では、リラックスして本来の自分を出しているが、
緊張する相手、先生、上司、先輩、利害や力関係上こちらが不利な相手、もっと言えば、恐い相手、強い相手などの前では、急に本来の自分を出せなくなる人が多い。
これもね、我々は幼い頃、それ(いつでもどこでも誰の前でも本来の自分でいる)を当たり前のようにやっていたはずなである(←それしかできなかったから)。
しかし、その発言が必ずしも親や大人たちから歓迎されなかった、あるいは、攻撃されたために、その場の空気を読み、アンテナを張り、相手の気持ちを察して、(はっきり申し上げれば)保身のために、相手によって言動を変えることを覚えたのである。
小さくて弱く、親や大人たちに嫌われたくない/攻撃されたくない子どもとしては、それもまた仕方のないことであったと思う。
しかし、今は違う。
今やもう大の大人であるあなたは、やろうと思えば、それ(いつでもどこでも誰の前でも本来の自分でいること)ができるはずなのだ。
だが、これについてもまた、「いやぁ、世間って、人間関係って、そういうもんでしょ。」と嘯(うそぶ)く人たちがいる。
その言葉に騙されてはいけない。
そう言って来る人の大半は、「相手/周囲の反応が恐くて」、相手によって言動をコロコロと変えて来た人たちなのである。
しかし、「恐くて」と言ってしまっては、自分が「ヘタレ」で「ビビり」であることがバレてしまうので、その前に「そういうもんでしょ。」と世間の常識であるかのように正当化しているのである。
但し、私も絶対的に「いつでもどこでも誰の前でも本来の自分でい」なければならないと思っているわけではない。
相手の成長のために、敢えて「(一部または全部を)言わない」「言い方を変える」場合がある。
むしろ「相手への愛がある」場合は、嘘八百でも、演技でも、なんでもありだと私は思っている。
しかしこれは、相手が誰であろうと、どんなに恐い、おっかない相手であろうと、本来の自分でいられうようになってから行うことだと思っている。
やっぱりそっちが先。
少なくとも、まずそれ(いつでもどこでも誰の前でも本来の自分でいられること)を目指しませんか。
よってまず基本に戻り、丹田呼吸で「肚が据わる」ことから始めることをお勧めしている次第である。
我々の先人たち(戦国時代の武将たち、幕末の志士たち)もまたそうやって、いつでもどこでも誰の前でも本来の自分でいられることを(たとえ殺されようとも)目指したのである。