私は可能な限り、「自分の本音を結論から、そのとき、その場で、その人に、伝えられるようになること」を奨励している。
後になって、別の場所で、別の人に、本音もどきのことを言うのではなくてね。
こんなことをわざわざここで申し上げなくても、我々は幼い頃、それ(そのとき、その場で、その人に、自分の本音を結論から伝える)を当たり前のようにやっていたはずだ(←それしかできなかったから)。
しかし、その発言が必ずしも親や大人たちから歓迎されなかった、あるいは、攻撃されたために、その場の空気を読み、アンテナを張り、相手の気持ちを察して、(はっきり申し上げれば)保身のために、それを言わなくなったのである。
小さくて弱く、親や大人たちに愛されたい/受け入れられたい子どもとしては、それも仕方のないことであったと思う。
しかし、今は違う。
今やもう大の大人であるあなたは、やろうと思えば、そのとき、その場で、その人に、自分の本音を結論から伝えることができるはずだ。
そう言うと必ず、そういう(そのとき、その場で、その人に、自分の本音を結論から伝える)のは、未熟な人間がやることだと言って、非難して来る人がいる。
その言葉に騙されてはいけない。
そう言って来る人の大半は、「敢えて」そのとき、その場で、その人に、自分の本音を結論から伝えない人なのではなく、「相手/周囲の反応が恐くて」そのとき、その場で、その人に、自分の本音を結論から伝えられない人たちである。
しかし、そう言ってしまっては、自分が「ヘタレ」であることがバレてしまうので、その前に相手を「未熟者」と攻撃し(攻撃は最大の防御である)、自らを正当化しているのだ。
しかも、「そのとき、その場で、その人に、自分の本音を結論から伝え」ないことは時に、相手を見殺しにする、非常に「冷たい」行為にもなる、と私は思っている。
但し、私も「そのとき、その場で、その人に、自分の本音を結論から伝える」ことを無条件によしとしているわけではない。
それは確かに「我(が)の垂れ流し」に陥ることがある。
よって、私は「そのとき、その場で、その人に、自分の本音を結論から伝える」ときの条件として、「そこに相手への愛があるか」を付け加えたい。
但し、「愛がある」というのは、必ずしも相手の主観的満足に寄り添って、猫撫で声でよしよししてあげることではない。
場合によっては、叱咤激励する厳しい「愛」もある。
でもやっぱりそこに「愛」が、そして、「相手の存在への畏敬の念」があるのである。
だからせめて、パートナーとか、親友とか、あなたにとって大切な人との間においては、「愛をもって」「そのとき、その場で、その人に、自分の本音を結論から伝えられる」関係の構築をお勧めしたいと思う。
そうでないと、折角今生で逢えたのに、人と人とのこころの距離が、余りに冷たく、遠過ぎる、と私は思っている。