高校生の頃、夕方になると、犬の散歩を口実に、裏口を開けて、隣接する広い空き地に出て行っていた。
そこにいれば誰にも見つかることはなく、犬を放したまま、そこに積まれていた資材の上に横になって、ゆっくりと夕焼けを眺めることができた。
ようやく茜色に染まり始めた西の空が、次第に色の濃さを増し、なんとも言えない夕焼け空の移ろいを静かに見せてくれる。
何が観たかったのか、何を感じていたのか、何を求めていたのか、当時の自分にはわからなかったが、少なくともそうしないではいられない衝動があった。
さらに日が沈んで行くと、空は茜色から紺色に色調を変え、やがて濃紺の闇に沈んで行く。
「しょうがない。帰るか。」
離れ難い想いを引きずりながら、犬をつかまえて家に帰った。
今ならそのとき何が起きていたのかがわかる。
どうでもいいことに縛りつけられ、窒息しそうな日々の中で、
あの夕焼けを夕焼けさせているものを感じたかったのだ。
それはこの私を私させているものを感じることと同一の体験であった。
その働きを「命」という。
ゾンビのような日々の中で、私は自分が生きていることを感じたかったのである。
西行の
命なりけり 小夜(さよ)の中山
の真意がようやくわかった気がした。
そして毎日の現実的な生活の中でも、その「命」を感じようとする伝統が、縄文時代からこの風土にあったことを、明後日の勉強会でお話しよう。