「水でいえば世の中、まみずが全部であることは期待できませんし、必ずしもそうでなくともよいと思います。まみずがまみずであるのは、濁水があるからでしょう。濁水あってのまみずです。そこにまみずの効用があるわけです。全部がまみずになってしまったら、もうまみずも存在する必要がありません。まみずがあくまでまみずとしての価値を持つのは、濁水のために必要だからです。
はっきり言って、全部がまみずになると予期することは、願望としてはともかく、観念的ではないかと思います。人間というものは基本的に、最初生まれた時から自分の中に、まみずを持っているのですが、成長するにつれて当然、世の中の濁水にもつかるわけですから、本人自身は何がまみずか濁水かわからないという状態が人間の偽らざる姿です。現実的にいって、どのような人間もこれを繰り返しています。…
人間というものが、それぞれ、自分の全生涯の経験を通じて、学んだり、悟ったりしたことをそのままわが子に伝えていくことができるならば、子どもはそれをもとにして親以上に成長することができるでしょう。しかし、それができないのが現実です。子どもはまたゼロから出発し、自分で経験していかなければなりません。…若い人はやはり若い人で、自分自身の経験を通じていろいろなことを感じ、また考えていかなければなりません。自分自身の実感として経験しなければなりません。実感とは、楽なこと、快いこと、楽しいことだけを感じるのではなく、つらいことも苦しいことも、悲しいことも嫌なことも避けないで、いろいろと実感しなければ、深い豊かな実感とは言えません。
実感し深く感じることは、生命の促しであると共にその証明です。私たちの生命が、生命であるためには実感しなければならないのです。そういう具合に一人一人がそれぞれ、自分の生命のあかしのために実感していくのが事実です。…
先ほどの濁り水の話ですが…まみずというのは濁水に対してまみずなので、どちらも水には違いありません。どちらも人間の心の姿です。まみずが濁水に転化するように、濁水もまみずに変わるものです。しかも、濁水の中にもまみずがある。そして濁水を感じるところにまみずの本来の姿が表れています。
濁水の中にいてまみずを実感し、深く感じられるからこそ、まみずを味わう喜びが出てきます。それがあるからこそ、われわれはいつも成長する喜びがあると思います。理想的に言えば、完全な姿ではじめからあればよいのですが、そんなふうに最初からでき上がっているとしたら、かえってなんのために人間は生きていくのかわからないとも言えます。生きるということは完全でないところから、ゼロから出発することです。…
よく私を、いわゆる理想主義者と勘違いした人から質問されるのですが…私はそういうことは一つも考えていないのです。私は、人間がいかに生きるかを、具体的に、人間が生きているという現実に基づいて考えようとしています。理想社会があるのか、ないのか、どうだこうだという観念上の問題ではなく、生きるということは厳然たる事実ですから、人間が生き生きと生きることが、どうしたらできるかに中心をおきたいのです。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

自分の中に濁水があるという自覚を持つこと。それが煩悩の自覚。
しかし、自分の中にまみずもあるという自覚を持つこと。それが仏性の自覚。
濁水の中にいてまみずを実感する=煩悩まみれの中に仏性の存在を、働きを実感する。
そして成長して行く。
そこに生きる喜びがあるわけです。
「濁水の中にもまみずがある」とは深い言葉です。
煩悩の中にも仏性がある。
仏性の働きを感じるために煩悩がある。
そしてそれがさらに進むと、煩悩即菩提。
煩悩そのものが菩提である世界が展開することになるが、近藤先生らしく、それをほんのりと示唆されただけで言葉を終えている。

 

 

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