「大人はとかく自分の本音は放り出しておいて、大義名分を言いたてます。自分の内心をふりかえると、それでは少しばかり恥ずかしくはないでしょうか。どうか無事で大過なくという言葉の裏には、得をしたい、少なくとも損は絶対にしないようにという気持がうかがえます。言いかえればそれは、功利的で打算的な気持です。…つまり親の功利的なプランで子どもを教育していることが少なくないのです。それが子どもに対する愛であるとと、言い分は立派です。たしかに親にとって愛があるという言い分はわかります。事実お子さんを愛しているでしょう。しかし愛というものをダシにして、自分勝手なプランを子どもに押しつけているところがありはしませんか? そういうことをはっきりお聞きしたいと思います。
親自身が安全第一主義で、事がなければ…間違いがなければいいとばかり考えて、ほんとうに人間を育てようという気持がみえません。…
親の一般的な考え方は大体において、世間がこうだから子どもをこんなふうにとか、全体の経済組織がこうだから子の進路はこうだとか、要するに世間に適応することばかり考える傾向があります。そのために子どもの人間性というか、ほんとうの生命の表現というものがいろんな意味で歪められ、抑圧されていくことに気がついていないのです。…
親は世間に合わすことばかり考えて、その子の個性とか能力とかを中心には考えません。…世間に通用しなければいけないと信じているのが本音です。しかも世間に通用するというのは、実は親が功利的に考えている世俗的な評価のことを言うのです。
子どもの能力といってもいろいろ多面的な能力があるわけです。ところが親御さんの言う能力は、簡単に言えば世渡り上手というか、世間でうなく、要領よく生きられるような能力で、そういう能力を発展さすことが大切だと思っているのです。うまく世間に適応するという、適応能力です。…
社会に、それぞれの制度に適したいろいろな職業があります。これらの職業はその時代、制度に合っており、その職業につけば効率のよい生き方にもなります。したがって社会の方でも、その必要に応じてそれに適した人間だけを取り入れようとし、個人の方も、できるだけそれに適応しようと努めるものです。その際重要なのは、その個人の人間としての独自性を尊ぶということではなくて、社会の側に役に立つかどうかなのです。つまり社会は強く適応を求めるのです。適応とは要するに、社会の要求に合うような人間になるという意味なのです。…
親はどんなに偉人でも、子どもよりも長く生きて、いつまでも保護し、その末を見届けることはできません。結局子どもは、自分の力で人生を生きるものです。子どもの独自性を認め、その望む生き方を尊重して、その子が自分の人生を選びとり、それに責任をもって力強く生きるように助力してやることが、親にとって必要なことではないせしょうか。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

「ほんとうに人間を育てようという気持がみえません」とは、近藤先生として珍しく、手厳しいことズバリとおっしゃいました、
反対に言えば、人間を育てる、生命(いのち)を育てる、というところに、親の大切な、いや、神聖にして重大な役割があるということができます。
いくら世俗的な適応がうまくいったところで、その子がその子でなくなってしまったら、その子の生命(いのち)が歪められてしまったら、その子がその子に生まれて来た意味が、甲斐がありません。
人は何のために生まれて来たのか、いつもその原点に戻って来る必要があります。
そして、繰り返し申し上げて来た通り、子どもの生命(いのち)をちゃんと見つめ、ちゃんと育てられるようになるためには、まず親自身が、大人自身が、自分の生命(いのち)をちゃんと見つめ、ちゃんと育てられるようになる必要があるのです。
そうすれば、私が私であるように、この子もこの子であったほしい、という願いは、明確になって行くに違いありません。

 

 

お問合せはこちら

八雲総合研究所(東京都世田谷区)は
医療・福祉系国家資格者と一般市民を対象とした人間的成長のための精神療法の専門機関です。