「現代の青少年の友だち関係は、機能的といいますか、遊びとか趣味では結ばれるけれども、ほんとうの意味でお互いに人間的に結ばれる関係が少なくなっています。…こうしたことの理由の一つは、子どもが自分の家で保護されて、必要な物は与えられて勉強しておればよい状態にあることです。…
こうした物に恵まれた状況を現代の子どもの幸せと言えば言えるでしょう。しかしこのように、自分の家では物を充分に与えられ、自分の思う通りにして楽しんでいられますが、いざ友だちと一緒にやるとなると相手のあることですから、いつも自分の思い通りにはならない事が起きます。すると面白くない、つまらない、一緒にやるのがいやになります。お互いにある程度興味が共通して、趣味が共通している間はいいのですが、それだけのものでその場限りになってきます。
ですからちょっとでも共通の趣味が無くなったら、もうお互いに全然興味がなくなっていしまいます。昔の場合は、他に娯楽がなくて、友だちと遊びを中心にしながらつき合っていくうちに、自然に人間関係のあり方を覚えたものです。例えば友だちがわがままを言っても、ある程度我慢するし、また自分の友だちも、自分のわがままを我慢していることに気づきます。こうしてお互いに将来必要な社会的な生き方の訓練が自然にでき上がってきます。またそのつき合いの中で、それぞれ相手の特徴もわかってくる、そのようにして、人間的な面に対する理解も遊びを通じながら養ってきたわけです。…
そういうことが、いまの子どもたちには少なくなり、機会もなく、そのまま過ぎてしまうことが多いのです。とすると、必然的に、他の人と何かを『ともにする』ということがほとんどなくなります。『ともに』する人が友だちなのです。…
そういう点では、友だち関係のいちばん深いものは運命共同体の中で生れるものでしょう。昔の戦友などというのはそうでした。生死を共にするような状態になってくると友情は深くなるわけです。運命を共同にするのですから非常に緊密になったものです。いまでは生死を共にし、運命を同じくするなどということは、全くといっていいほどありません。物質的、経済的に安定して何の危険もなく、すべて安全です。別に友だちがいなくても完全で、しかも楽しみはある。ちょっと淋しいと思った時にしゃべる友だちがあればよいという程度で、友情などもごく浅い、人間関係としても淡いものになってきました。」(近藤章久『感じる力を育てる』より)
令和の今の人間関係を先読みされたような近藤先生の洞察には驚かされます。
友だちいない。恋人いない。パートナーいない。別に欲しくもない。自分の中に小さく小さく閉じた世界の中での幸せ。
そう。自分以外の人間は思い通りにならないから面倒臭いのです。
だから、そうやって、一人の世界、小さな世界に閉じこもっていくのか、
それとも、思い通りにならない中で、面倒臭い中で、むしろそうだからこそ、揉まれながら手間暇かけながら培(つちか)って行く、深い人間関係というものを目指すのか。
以前、すぐに全部思い通りにならないとイヤ、というのを幼児的欲求と言いました。
思い通りにならないことも抱えて生きて行ける力のことを成熟した大人の力と言います。
それもただ抱えていくだけではありません。ラグビー選手が2、3人からタックルされても、引きずりながら前へ進んで行こうとするように、前へ前へ力勁く進んで行くのです。
現代は段々と幼児的な方に傾いて行っているんじゃないかと私も危惧していますが、その一方で、八雲勉強会やワークショップの仲間たちを見ていますと、まだまだ人と人との関係には希望があると感じています。