初めて「愛見煩悩」という言葉を聞いたときに驚いた。
そんな言葉が既にあったのか。
自分が長年考えていたことを、当たり前のように、ズバッと示された気がした。
特に仏教を学んでいるときに時々起こることであるが、驚くと同時に、そんな言葉を残した先人たちと何百年、千年、二千年の時を超えて、話をしているような気がして来て、有り難く、嬉しくなるのである。
で、「愛見煩悩」。
そもそも、我々の精神性を考える場合に
(1)理性(知性)
(2)感情
(3)霊性
の三層をもって考えていた。
それぞれにそれぞれの役目があるのだが、この世界の真実、人間の精神世界の真実を掴むには、理性(知性)で考えることや、感情で感じることでは、到達できないと思っていた。
そう。
思考では、絶対的真実は掴めない。
感情でも、絶対的真実は掴めない。
それは霊性的直観によらなければならない。
しかるに、思考や思索によって絶対的真実に到達したかのような思い上がりや、単なる情緒的体験を何か深い体験をしたかのように勘違いする輩が多過ぎるのである。
これはわかる人にはわかるが、わからない人にはわからない話であるが(従って、これを理性でもって皆さんに説明しようとは思わない。理性で説明できるはずがない)、
少なくとも「愛見煩悩」という言葉は、
「愛」=感情
と
「見」=思考
とが煩悩であると、ズバリと、そしてアッサリと、斬って捨てている。
即ち、理性と感情は真実に到達する道ではなく、むしろ障害になる。
これは気持ちが良い。
それでいて、「で、何が真実に到達する道なのか」は言っていない。
そこで出て来るのが「霊性的直観」なのである。
そういう意味では、「霊性的直観」と言ってみても、それだけでは単なる符牒に過ぎない。
あなたには本当に「霊性的直観」の“体験”がありますか?と迫って来るものがあるのである。
それがわからないと、その体験がないと、この世界は、人間の精神世界は、イリュージョンのままなのである。
少なくともあの妙好人たちは、愛見煩悩によらず、霊性的直観によって真実を体験している。
畏るべし。