2015(平成27)年11月19日(木)『ミニマリスト』
先日テレビで、必要最小限の物しか持たずに暮らす人=ミニマリストの人たちの生活ぶりが紹介されていた。
その物質面に留まらない精神面での変化が少なくないのだという。
その画面を見ながら、日本人だったら「ミニマリスト」でなくとも、雲水や空也や一遍の存在を知らないのか、とちょっと寂しい気持ちになった。
雲水は、行雲流水の如く、一カ所に停住しないで師を求めて行脚(あんぎゃ)する禅の修行僧のことである。
その持ち物は雲水行李(こうり)に入るものだけ、経書、袈裟、雲水衣、作務衣(さむえ)、下着類、持鉢(食器)など。
その根底には「本来無一物」がある。
そして、六波羅蜜寺の像で有名な空也上人は、その「捨ててこそ」という言葉に尽きる“市聖(いちひじり)”である。
“私の物”(私有物)どころか“私”までも捨て果てるのだ。
そして“捨聖(すてひじり)”一遍上人もまた、諸国を遊行し、その最後にあたって、持ち物全てを焼き捨て、「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ。」と遷化されたのであった。
そう思うと「ミニマリスト」はまだ「ミニマム」を私有している。
そして所有している「私」がいる。
表面は似ているように見えて、その精神的根底は決定的に異なる。
そしてさらに言うならば、
私がいても私がいるのではなく、
物があっても私の物はなく、
その物さえあるのでもない、
という境地もある。
そう、「持たないこと」「捨てること」さえも捨ててしまうのだ。
だから、わざわざ維摩(ゆいま)というマハラジャのような大金持ち、大物持ちまで登場させて来るところに仏教の面目がある。
持っていても持っていない境地もあるのである。
今日は些か老婆親切であった。