風の裂け目の観えないものに この世の真実はわからない。
それまでの自分が破綻し 真実の世界が開けるとき 風の裂け目が立ち顕(あらわ)れる。
※写真と詩(うた)または名文を不定期にゆっくりペースで(忘れた頃に)更新して行きます。
スマホによっては写真が小さくしか見えないかもしれませんが、ご容赦下さい。
尚、時に改訂、消去することがあります。 2024(平成25)年4月28日(日)
最も哀しいことが
悲惨なことが
絶望的なことが
起きたときに想う。
「天行健なり」(『易経』)
宇宙(そら)を仰ぎ、宇宙となれ。
臣(しん)安萬侶(やすまろ)言(まを)す。
それ、混元(こんげん)既(すで)に凝(こ)りて、氣象(きしょう)未(いま)だ效(あらは)れず。
名も無く爲(わざ)も無し、誰(た)れかその形を知らむ。
然(しか)れども、乾坤(けんこん)初めて分れて、參神(さんしん)造化(ぞうか)の首(はじめ)となり、陰陽ここに開(あ)けて、二靈群品(ぐんぽん)の(おや)となりき。
所以(このゆえ)に、幽顯(ゆうけん)に出入(しゅつにゅう)して、日月(じつげつ)目を洗ふに彰(あらは)れ、海水に浮沈(ふちん)して、神祇(じんぎ)身を滌(すす)ぐに呈(あらは)れき。
故(かれ)、太素(たいそ)は杳冥(ようめい)なれども、本教(ほんきょう)によりて土(くに)を孕(はら)み島をみし時を識(し)り、元始(がんし)は綿(めんぱく)なれども、先聖(せんせい)によりて神を生み人を立てし世を察(し)りぬ。
寔(まこと)に知る、鏡を懸(か)け珠(たま)を吐きて百王相續(そうぞく)し、劒(つるぎ)を喫(く)ひ蛇(おろち)を切りて、萬神(ばんしん)蕃息(ばんそく)せしことを。
安(やす)の河(かは)に議(はか)りて天下(あめのした)を平(ことむ)け、小濱(をばま)に論(あげつら)ひて國土(くに)を淸めき。
ここをもちて、番仁岐命(ほのににぎのみこと)、初めて高千嶺(たかちほのたけ)に降(くだ)り、神倭天皇(かむやまとのすめらみこと)、秋津嶋(あきづしま)に經(けいれき)したまひき。
化熊(くわいう)川を出でて、天劒(てんけん)を高倉(たかくらじ)に獲(え)、生尾(せいび)徑(みち)を遮りて、大烏(たいう)吉野に導きき。
舞(まひ)を列(つら)ねて賊(にしもの)を攘(はら)ひ、歌を聞きて仇(あた)を伏(したが)はしめき。
身読に最も相応しい文章である。
意味なんぞはどうでもいい。
言葉自体が力を持っている。
ただ繰り返し声に出して読む。
天地に自分に聴かせるのだ。
すると感応してくるものがある。
かの森田正馬が患者に音読させたことでも知られる。
余り知られていないがこういうところこそが、森田の面目躍如たるところである。
あなたにも音読を強くお勧めする、何回でも、無限回でも。
「信といふは、まかすとよむなり」
(『一遍上人語録』)
「道を道にまかすとき、得道す。
得道のときは、道かならず道にまかせられゆくなり」
(『正法眼蔵』第四十五「菩提薩摂取法」)
くっそー、一遍も、道元も、憎らしいくらいにわかってやがる。
※かつて近藤先生と「猫の妙術」について話していたところ、原文のコピーを何部か依頼されたことがあった。
指導しているセラピストたちに読ませたいということであった。
精神療法の要諦と重なるところ大であったからであろう。
懐かしく思い出す。
ちなみに上掲の野良猫は、我が家の庭で寝過ぎである。
「すなほなる 柳の枝を 見るにつけ ゆがみながらに 南無阿弥陀仏」 (貞心尼)
[意訳]
素直な柳のようには生きられない ゆがんだ私でも いや ゆがんでどうしようもない私だからこそ どうであっても救うという弥陀の本願がこころの底からありがたい。
※我が家で羽化したナミアゲハ。
10月の空に飛んでいきました。
「この道や 行く人なしに 秋の暮」 (芭蕉)
[意訳]
この秋の(人生の)暮に 私を本当に理解してくれる人は誰もいないけれど 人間を超えた働きと共にあるのだから 私は私の歩むべき道を歩むのみだ。
「生まれ生まれ生まれ生まれて 生の始めに暗く
死に死に死に死んで 死の終わりに冥(くら)し」 (空海)
[意訳]
何度生まれ直しても 無明(むみょう)(真実を知らない)の闇に始まり 何度死を繰り返しても 愚痴(知らないことを知らない)の闇に終わる。
薔薇(ばら)にはなぜかがない。
咲くから咲く。
みずからわずらうことなく
人に見られることも求めない。
〜 ジル・アイヨー(Gilles Aillaud)〜
こういうことを書ける西欧人もいるということに希望が持てた。
人もまた
薔薇が薔薇するように
ただ自分するのみだ。
「仏は常にいませども 現(うつつ)ならぬぞ あはれなる
人の音せぬ暁(あかつき)に ほのかに夢に見え給(たま)ふ」
(『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』)
[意訳]
仏の働きは常に世界に満ちているのだけれど、凡夫が現実に感じることができないのは哀しいことだ。
凡夫の身では、人の物音のしない夜明けごろに、夢の中でようやく仏の働きを人の形として見るだけであろう。
「年たけて また越ゆべしと 思ひきや
いのちなりけり 小夜(さよ)の中山」 (西行)
[意訳]
年老いてからこの小夜の中山の峠をまた越えることになるとは思ってもみなかったが、感得してみれば、(私個人の年齢や寿命などどうでもいいことで、)この私も 小夜の中山も 世界みな 生命(いのち)の顕(あらわ)れだったのだなぁ。
「渓声(けいせい) 便(すなわ)ち是(こ)れ 広長舌(こうちょうぜつ)
山色(さんしき) 清浄身(しょうじょうしん)に非(あら)ざる無(な)し
夜来(やらい) 八万四千(はちまんよんせん)の偈(げ)
他日(たじつ) 如何(いか)んが 人(ひと)に挙似(きょじ)せん」
(蘇東坡(そとうば))
[意訳]
谷川の音は、そのまま仏の説法
山の姿は、そのまま仏の清浄身
昨夜から聴き続ける無数の偈を
いかにして人に示すことができよう
(観る眼 聴く耳があれば 真実は常に草木国土に溢れている)
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を」
(須佐之男命(スサノオノミコト)) 『古事記』
[意訳]
幾重(いくえ)にも重なって雲が立ち上(のぼ)る その湧き出(い)づる雲が幾重にも重って垣を作るように 私が妻を愛する想いは 幾重にも重なって妻を包み守るのだ。
『神楽歌(かぐらうた)』
「君も神ぞ 遊べ 遊べ 遊べ 遊べ 遊べ 遊べ」
「遊べ 遊べ 汝(まし)も神ぞ 遊べ 遊べ 遊べ 遊べ 遊べ 遊べ」
「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。
世中にある人、こと、わざ、しげきものなれば、心におもふことを、見るもの、きくものにつけて、いひいだせるなり。
花になくうぐひす、水にすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける。
ちからをもいれずして、あめつちをうごかし、めに見えぬおに神をもあはれとおもはせ、をとこをむなのなかをもやはらげ、たけきもののふの心をもなぐさむるは、うたなり。」
(『古今和歌集』仮名序)
[意訳]
やまとの歌は、人の心を種として、たくさんの言葉の葉が萌え出(いで)てできたものである。
世の中の人は、すること、なすこと、たくさんある中で、心に思うことを、見るもの聞くものに託して、歌を詠(よ)むのである。
花に鳴くウグイス、水に住むカエルの声を聞いていると、この世に生きているもので歌を詠まないものがあるのであろうか、と感じる。
はからって詠(うた)っているわけでもないのに、天地を動かし、目に見えない存在にもしみじみと感じさせるものがあり、男女の仲をも和(なご)ませ、荒々しい武士(もののふ)の心をも慰めるのは、歌である。