ある患者さん(Aさん)が、過去の辛い出来事について話し始めた。
それに対して、対人援助職のBさんはどう応えるか。
それにワンパターンの答えなどあるはずがない。
例えば、それは「ただ話を聞いてほしい」だけかもしれない。
ならば、一所懸命に話を聴けば良い。
例えば、それは「慰めの言葉がほしい」のかもしれない。
ならば、誠実に慰めの言葉を言えば良い。
例えば、それは「未来に向かってのアドバイスがほしい」のかもしれない。
ならば、真摯に未来に向かってのアドバイスを言えば良い。
他にもいろいろな可能性が考えられるが、いずれにしてもAさんが過去の辛い出来事の話を「何のためにするのか」を見抜かなければ対応できない。

と言うと、「じゃあ、Aさんに『ただ話を聞いてほしいんですか?』『慰めの言葉がほしいんですか?』『未来に向かってのアドバイスがほしいんですか?』と訊けば良いじゃないですか。」と言ったすっとこどっこいがいる。
本人がわかってしゃべってることは非常に少ない。
そこを見抜くのが対人援助職の仕事である。

このように、Aさんが過去の辛い出来事について話す真意がどこにあるかを理性的に「分析」し始めると、それだけでもこんなに延々とした話になる。

これが「直観」だと一瞬で終わる。
「あ、こうしてほしいのね。」
しかし、これがそう簡単ではない。
鈍いのに、あるいは、偏っているのに、自分は「直観」が発達している、自分の「直観」が当たると思っているへっぽこがいる。

あのね、「直観」が働くようになるためには、あなたの心に後から付いた神経症的な曇りや歪みを除去しないと、「直観」が当たるようにはならないのだよ。
曇ったガラスを通して、あるいは、歪んだガラスを通して真実が見えるわけないよね。
そのために対人援助職者には、自分の神経症的問題を解決して行くトレーニングが要るわけです。
例えば、まだ自分の他者評価の奴隷の問題も解決していないのに、他人の真意が見抜けるわけがないよね。そこに投影が起こるに決まっているから。

そしてさらにもう一歩踏み込んでおこう。
最初に挙げたAさんの話は、いわば、Aさんの秘められた「真意」を見抜く話であるが、その「真意」というのは、残念ながら、まだまだ「浅い真意」である。
「ただ話を聞いてほしい」にしても、「慰めの言葉がほしい」にしても、「未来に向かってのアドバイスがほしい」にしても、それらはせいぜいAさんの秘めた「我の真意」である。
確かに、それに応えてあげるとAさんの「我」は喜ぶかもしれない。
しかし、そのもっともっと奥にAさんの「生命(いのち)の真意」があることを忘れてはいけない。
その「生命(いのち)の真意」を観抜けなくっちゃあ、本当の「直観」が働いているとは言えないのである。
ひょっとしたら、その生命(いのち)の声は、「いつまでも過去の出来事なんかにとらわれていないで、自分を通して働く大きな生命(いのち)の力を感じて、のびのびと本当の自分を生きて行きたい」と言っているかもしれないのである。

だから
「直観」磨くべし。
「神経症的問題」解決すべし。
私もすーっとずーっと修行中である。
そして最後に、この行程は同時に自分自身の「生命(いのち)の真意」が観えて来る道でもあるのである。

 

 

 

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