若い頃、頭が良いことはいいことだと思っていた。
しかし、年齢を重ねて来るにつれ、頭が良いことが人間の本質的な成長にとって却って邪魔になる場合があることに気が付いた。
なまじ頭が良いと、うまいことやろうとするんだもの。
効率的に
計画的に
そして
他者評価を得るように
目的を達成しようとする。
その目的がまた
学歴だったり
金だったり
物だったり
名声だったり
権力だったりする。
そういう場合、無駄に頭が良いと、碌(ろく)でもないことになる。
俗欲まみれの鼻持ちならない才人たちの世俗的成功者をあなたは知らないか?
結局は、自分が何のために生命(いのち)を授かったのか、がわかっていないのである。
我々を通して働くものが、(我々の我欲を満たすためではなく)我々一人ひとりに与えられたミッションを果たすように導いてくれる。
その働きのことを古人は「徳」と言ったのである。
「徳は才の主(しゅ)にして、才は徳の奴(ど)なり。」(『菜根譚』)
(徳は才能の主人であって、才能は徳の奴隷である)
厳密に言えば、必ずしも頭が良いことが悪いのでもなかった。
その才能を使う主(あるじ)が、我なのか、天なのか、それが問題だったのである。