2016(平成28)年3月3日(木)『どの本を読むか』
ときどき
「先生、この本、どう思いますか?」
と訊かれることがある。
大抵は、サイコセラピーや仏教、キリスト教、瞑想など、精神世界の本なのだが、正直言って気が重くなることが多い。
申し訳ないが、大方がハズレの本なので、否定的な答えをせざるを得なくなるのだ。
もっと良い本を読んでくれんかなぁ、という気持ちになる。
しかし、かつての自分のことを考えるとは、むしろ、よく訊けるなぁ、と思う。
私が近藤先生のところに通っていたとき、自分の観る眼を全く信じていなかった(その自覚があった)ので、まず近藤先生が著書や講演で引用されている古典、仏典、聖典などをひたすら読んでいたのを思い出す。
しかもわかっていない自称専門家たちの浅薄な解説は却って邪魔になるので、できるだけ原文と純粋学術的注釈のみの本に挑戦した。
(現代本に良いものがないわけではないが、古典の中に深いものが圧倒的に多く、その文体自体にも響きがある。是非とも、苦手意識を持たず、古文・漢文にも挑んでいただきたいと思う)
もちろん読書だけで成長するわけもなく、その間、面談によって薫習を戴いていたわけだ。
そうすると不思議なことに、段々と書かれている原文の表面的な意味とは別の真意まで読めるようになって来る。
「あの古典に書いてあったこの言葉は、本当はこういう意味なんですね。」
「よくそこに気がついたね。」
そういった問答を近藤先生とするのが、この上なく楽しみであった。
こうして私はまず自分の観る眼を養った。
そして数十冊の経験を経てから、ようやく自分の選別眼のみで本を選ぶ作業に入ったのである。
それらを読んでいて何か気づいたことがあれば、
「先生、この本のこういう言葉はどう思われますか? 私はこう思うんですけど。」
とお尋ねする。
その度ごとに先生に1冊読んでいただくわけにはいかないので、自分の感じたことの要点をお伝えしたのだが、これは結構な真剣勝負であった。
自分の今の境地の程度を示していくわけであるから。
そして、先生のフィードバックを得て、また自分の真実を観抜く眼を磨いて行くのであった。
ここで私は骨董屋修行を連想する。
まず師匠について、本物中の本物だけをたくさん観る。
たくさんたくさん観る。
そうすると徐々に審美眼が養われて来る。
この行程は絶対に外せない。
そしてその上で、自分だけで骨董品を観て、ホンモノかニセモノか、自分の観立てを師匠に話す。
ここが真剣勝負である。
鉄拳が飛んで来るが、承認してもらえるか、ドキドキものであるが、これを経なければ、いつまで経っても骨董屋として一人立ちできない。
ニセモノを得意になって店先に飾る骨董屋になってはしょうがないのである。
従って、本においても、まずホンモノの本を読んで自分の観る眼を磨くことを強くお勧めする。
そして不思議なことに、本を観る眼ができてきた頃には、人を観る眼もできてくるのである。