2019(令和元)年5月21日(火)『私の出番』

精神科領域の世界的な診断基準として、例えばWHOによるICD-10がある。

改訂間近であるが、その診断基準の中に「社会的、職業的あるいは家庭的活動」に「困難」を感じることなどという記載がある。

早い話が、私生活や職業生活において支障があるかないかということが“治療”を要する“病気”と診断する上で重要なポイントとなっているのである。

これは合理的ではある。

しかし“私の”診断基準はこれと合致しない。

たとえ私生活と職業生活を“表面的に”適応的に生きていたとしても、それがニセモノの自分(後から身につけた神経症的な自分)を生きているのであれば、大いに問題がある、と私は感じているからである。

それ故、昔は本来の自分を生きていない人間は全て“病気”だと言っていたが、今はより厳密に二つに分けている。

即ち、本来の自分を生きていなくても(=ニセモノの自分を生きていても)、そこに切実な「情けなさの自覚」を持ち、それを乗り越えないではいられないという「成長への意欲」を持っている人は、そう思える限り、“健全”であり“成長”のための精神療法の対象になる。

しかし、本来の自分を生きていない(=ニセモノの自分を生きている)にもかかわらず、「情けなさの自覚」が切実でない人、「成長への意欲」が薄い人がいる。

それでは当研究所の“成長”のための精神療法の対象にはならない。

例えば、自分の怒りの垂れ流しや八つ当たりに関してなかなか気がつかない人、腹の底から認めない人、一応気がついてはいるが必死に取り組もうとしない人がいる。

これでは、私生活と職業生活を“表面的に”は送れているので、もちろん医療機関における治療対象にはならないし、当研究所における成長のための精神療法の対象にもならない。

もし可能性があるとすれば、精神療法専門医がやっている自由診療のクリニックの中に対象として受けて下さるところがあるかもしれない。

そういうところは本当に役割分担だと思っている。

私は自分の担当する、細い、狭い範囲で大いに結構である。

(と言いながら、私のセラピーの対象は実は潜在的に多いと思っているのだが)

令和以降、小さな面談室で、クライアントと共に可能な限り本物のセラピーをやらせていただきたいと願っている。

 

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