2019(令和元)年5月15日(水)『丹田呼吸の本意』

昔、丹田呼吸をやっていた頃は、段々に肚が据わり、自分が強くなって来たような気がしていた。

しかし、それは“我”が強くなっていたのであり、てめぇ、斬るぞ、という態度で人相も目付きも悪くなっていたように思う。

新宿を歩いていたとき、向こうから来る人たちが次々と道を開けてくれたのを今でも覚えている。

あのときもしチンピラと行き逢っていたらどうなっていたかと思うとゾッとする。

いつ死んでも良いと思っていたし、邪悪なものは叩っ斬ってやろうと思っていた。

そう思って毎日木刀を振っていた。

幕末の龍馬でなく新撰組の心持ちに近かったろうと思う。

これもまたのび太がジャイアンになって行く典型であった。

入って来た“気”を自分のものだと思って過信する。

自我は肥大し、慢心し、自分が強くなったと思い込む。

そうではない。

自分はどこまでいっても凡夫、無力・無能・非力なままなのだ。

そう思い上がることができること自体が愚かな証しである。

その力が本来、他力であること、借りものであることを忘れてはならない。

凡夫が運良く龍にまたがらせてもらっているだけのことであり、自分が龍であると勘違いしてはならないのだ。

自力で思い上がって強くなった気になるか

他力に助けられて勁くなっていることを自覚するか

それが決定的な分かれ目となる。

以前、小心者でビビリの青年が二人いた。

二人とも丹田呼吸で自分が強くなったと過信した。

私がその過信を指摘したところ

Aくんは再びビビって来なくなってしまい

Bくんは素直に内省し、本当の意味で勁くなって行った。

ここでもまた「情けなさの自覚」と「成長への意欲」の有無が試されるのである。

丹田呼吸の本意、掴むべし。

 

 

 

◆追伸

我らが北勝旺、令和最初の夏場所は1勝1敗、奮闘中です。

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